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「|憧《あくがれ》」(原作:谷崎潤一郎『春琴抄』)

「ふん、また来てやがる」
 師匠の言葉に弟子の凰水は窓の外を見た。
 外は雨である。
 その雨の中に、傘も差さずに立つ青年は昨日も来ていた。
「・・・私の傘を貸してやりましょうか」
「なぁに放っておけ。それにお前が出ていくと逃げちまうだろうさ」
 それはそうだろうと凰水も思う。
 窓の内から目が合っただけで、そそくさと逃げていく内気な青年なのだ。
「師匠。そろそろ種明かしをしてやってはどうですか」
 弟子の言葉に師の鳳瑞は呵呵と笑った。
「よせやい、俺の娯楽を奪うんじゃねェよ」
 愉快そうに煙草をふかしている。

 この家は人形造りの師匠と弟子の二人住まい。師匠は偏屈で通っているが腕は良い。弟子は腕は今ひとつで人が良い。
 弟子は師匠が通りすがりの内気な青年を揶揄うのを気の毒に思う。

 鳳瑞が作るのは生き人形と呼ばれる、生身の人間と生写しの人形である。
 松本喜三郎や安本亀八と云った名人にも劣らない腕の持ち主と言われている。
 窓辺に鳳瑞が精魂を傾けた少女の人形の傑作が置いてある。
 濡れたような黒髪に透き通る肌。憂を帯びた瞳とふくよかな唇。
 遠目には生きた人間としか見えまい。
 数日前、外の青年は窓辺を見るなり雷に打たれたように立ち竦んだ。
 以来毎日通っては人形へ憧れの視線を送り続けているのである。
 それを鳳瑞は揶揄うように、ある日はしどけなくガウンがはだけた姿をさせ、ある日は華やかな振袖を着せたりして青年の心を掻き毟り悦に入る。
(全く酔狂な)
と弟子は呆れている。一方で、思い切って家を訪ねるでも塀越しに声を掛けるでもなくただ見つめるだけの青年をもどかしく思っている。
 
「しかし、よく見れば・・・いえ、瞬きもしませんしびくとも動きませんからね。生身でないと分かりそうなものですが」
 凰水の言葉に
「なぁに。俺が見るにあいつァ近目なんだ。こっちを見るとき眉を寄せたり目を薄くしやがる。細けェ動きまで見えないんだろう」
 視力も気も弱い青年が窓辺の美少女に身を焦がすのは哀れでならないが、弟子の身では師匠に意見も出来ず、凰水は成り行きを見守るしかない。
 しかし。
 口が裂けても言えないが、凰水には思う所がある。

 師の鳳瑞の人形には、何か一点欠けている。
 それは素人には分かるまいし、凰水とて修行を重ねて見えてきたことだが、鳳瑞の人形には生気が無い。昔の名人の作にあるような、生きた人間の息吹を感じない。
 鳳瑞は成程腕は良い。どの人形も微に入り細に入り、肉の括れや産毛の一本までよく出来ている。
 だが、どんな美女の人形でも抱いて寝たいかというとそうではない。
 抱く前から冷たい木目に弾かれそうな拒否を感ずる。
(あの青年もここへ来て間近で見れば目が覚めように)
と凰水は思う。師はそれを知らず
「なァ賭けねぇか。俺ァあいつが百日通うと踏んでるぜ。小野小町への百夜通い、深草少将って奴だ」
「賭けませんよ。青年が気の毒です」
「ケッ、付き合いの悪い野郎だ」
 鳳瑞はつまらなそうに奥の工房へ引っ込むと乱暴に襖を閉めた。
 
 青年は三月通い続けた。雨の日も風の日も窓辺の人形に熱い視線を注いだ。鳳瑞は人形の関節を微妙に動かしたり手足の形を変えたり、悪戯を続けた。
 
 ある日。遣いに出ていた弟子の凰水は戻る際に若い二人連れとすれ違った。
 おやと振り向いて背中を見ると、一人は例の青年。一人は若い女である。
 二人は恥じらいつつも嬉しそうに言葉を交わしている。
 凰水の頬がほころんだ。
(叶わぬ恋は終わったようだ)
 青年には生きた恋人が出来たらしい。
 見ていると青年がおずおずと手を差し伸べ、女は躊躇いつつ手を握った。
(幸せにおなり)
 凰水は自分まで嬉しくなって家へと戻った。
 
「おい貴様ッ、あの人形を何処へやった!?」
 玄関の引き戸を開けるなり師匠の罵声が響く。
「な、何のことで」
「トボケるな!貴様あれをどっかに売りやがったのか!?この馬鹿野郎、取り返して来いっ!」
 鳳瑞は弟子の首根っこを引っ掴んで部屋へ放り込んだ。
 窓辺の人形が無くなっている。
「し、知りませんよ私は。第一家を出る時は、小さな風呂敷包み一つきりで」
 師匠は畜生畜生と喚き散らしている。
 そもそもある贔屓筋に特別に頼まれて作った人形を、青年への悪戯の為に納期を延ばしていたのだ。今から新しく作っても間に合う訳がない。
 凰水も人形が置いてあった窓辺を呆然と見る。・・と。ある事に気づいた。
(あの娘さんの着物、そういえば)
 青年の恋人の着物の柄は人形のものと瓜二つであった。

 その頃青年は。
「・・・こうして貴女の手を引いて歩けるなんて、夢のようです」
 恋人の手は硝子の蕾のように冷たく硬い。
「緊張していなさるね。私もです。生まれて初めて恋をしたんです。その人とこうして・・・」
 青年は足を止めて振り返った。照れ臭そうに笑い、そして真剣に
「私はね、今本当に、本当に今、この世に生まれたような心地です」
 女も足を止めた。俯いていた顔を上げ、青年の顔を見た。
 目が合った瞬間。
 女の瞳は潤い、冷たかった指先に熱い血潮が流れ、音の無かった胸が鼓動を始めた。
 初めて見る世界に女は少し眩しそうな目をした。
 そして初めての笑みを浮かべ、初めての声を上げた。
 
「わたしもです。わたしも、たった今生まれたのです。あなたの為に」
 
 百日。
 
 近目で内気な青年は恋を叶えた。





 

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