「陰」(元にした作品:谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)
私は女の横顔をずっと見ていた。
「この本を読むと静かな気持ちになるの」
長いスカートを畳に広げて、綺麗な脚を隠してしまって、薄い胸の前に本を開いて、何やら愉しそうな様子である。
「旅先になんで本を持ってくるの」
私の声が不機嫌に聞こえたのか
「あらごめんなさい」と本を閉じる。
女は私の側へ寄ってきて
「夕食の時間までお散歩する?」
と微笑んだ。機嫌を取りにくる子犬のようだ。女の髪を撫でる。
女は気づいたように
「外は危ないかしらね」
目を逸らした。
この温泉地は観光客が多い。既婚者の私と独身の彼女が人目につくことは、当たり前だが宜しくはない。私は大学で教鞭を取っており、彼女は事務員だ。
「じゃあ部屋に居よう」
私は女の頬にあてた手を首筋に滑らせた。林檎のように女を剥いた。
女の背の窪みに陰がある。浅はかな色だ。真面目な恋ではないからだろう。水溜まりのような陰を撫でると女はぴちぴちと跳ねた。
「ただいま」
遅い時間だったが妻は起きていた。
私は荷解きをして汚れ物を洗濯籠に入れる。冷蔵庫から出した水を飲む。その間妻はリビングのソファに腰掛けて映画を見ている。妻の横顔に沈む陰。痩せた頬と、難しく顰めた眉間の陰。妻は私が不貞を働いた事を知っている。
妻に刻まれた陰は情念だ。私たちは早い段階で夫婦の営みを終えた。既に男としての夫を愛していないのに、それは嫉妬なのか。還暦を過ぎても性欲を追う夫への嫌悪感か軽蔑か。妻は蠱毒の壺を知性と気位で封じ込めている。
(この顔が見たくて浮気するのだ)
そして思う。
(妻もまたこの情況を悦んでいるのではないか)
かつて若く美しかった妻も年齢を重ね、花が萎れるように容色も衰えた。月のものもとうに終えたようだ。妻の女性は、もはや身分証明書にしか記されない。
私の不貞は初めてではない。初回こそ見苦しいとか世間体とか妻は私を責めた。愛しているからやめて欲しいとは言わなんだ。繰り返すうちに何も言わなくなった。気づいたのは何度目の帰りだったろうか。私を迎えた妻の顔に、見事な陰が刻まれていることに。
陰の正体は妻の女性だ。
自分が他の女と寝ると、死んだ猫が蘇るように息を吹き返す。彼女に纏わりつき陰を刻む。暗い凪が宿った目の美しさ。そのうち私は不貞の報告をするようになった。
妻の横顔に語りかける。
「今度のは大学の事務員だ。そろそろ三十路かな。割と綺麗だよ」
妻は黙って聞いている。私はスマートフォンの画面を見せた。
「ほら。女優のナントカに似ている。聞き分けの良い子だよ。後々煩わしいことはないだろう」
「なんて子?」
珍しい。妻が名前を訊いた。
「志乃。古風な名だな」
夢二の挿絵のようにスラリと薄い体をしていた。
「お風呂に入ってから寝るんでしょう。私は寝室に上がるわ」
妻は二階へと階段を上がっていった。
温泉宿でたっぷり洗った体ではあるけれど、不貞をして帰った夜は、禊のような気持ちで家の風呂に入る。階段を上がった先は左のドアが妻の寝室、右のドアが自分の寝室兼書斎だ。私も階段を上がる。
ぎっ、ぎっ、ぎっ。
階段の突き当たりから白い手が伸びる。
とん。
(え?)
体が宙に舞い、後頭部が床に叩きつけられた。衝撃と痛みと痺れが全身を縛った。
ぎっ・・・ぎっ・・・
階段を妻が降りてくる。気配で、階段の途中に座り込んだのが分かる。
「ねぇ。私、再婚よね。前の結婚で子どもがいるって言ったわよね」
頭が痺れている。口も動かない。
「当時私は体が弱かったから、子どもは夫が引き取ったの。写真と手紙のやり取りはあったわ。間違える筈がないの。あの横顔のほくろ」
(娘・・・)
惹かれた筈だ。どこか横顔が似てるではないか。
「いちいち報告はしなかったわ。あなた、子どもが作れない体だし」
妻の声は落ち着いている。
「今までは放っておいてあげた。抱かれる側にも理由があるんだろうって。でもあの子はだめ」
妻は。妻は今どんな表情をしているのだろう。私が最後に見たのは闇の中から突き出された白い手のひら。
「見ていてあげるから、死になさい」
私は悟った。
妻が陰を纏っていたと思ったのは錯覚だ。妻に情念は無い。私に対する思い入れなぞ、もう何も。
私は最後の力を振り絞って妻の表情を見た。
無色透明なただの女が、私の死を見ていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?