僕のジレンマ:心が引き裂かれる

櫻坂46の僕のジレンマの一節に、こんな歌詞がある。

ジレンマ
でも君を一人だけ残していけない
心が引き裂かれるくらい

この世には何一つ割り切れるものなんてない

最近、この歌詞がよく心に浮かぶ。
先日、中学時代の友人と久しぶりに長電話をした。
3時間ぶっ続けで話し続けた内容は昔のことはほんの少しで、
ほとんどが「今」のこと。
思い出話だけでなく今の話ができるから続いているのだ。

「今」の話の中には、お互いの心身の状態に関するものが多かった。
40代も後半になると、健康診断でもいろんな不調が見つかるのは
自分だけじゃないんだなと思う内容だった。
そう思うということは、親もまた歳を取るということだ。

ありがたいことに、私の両親は健在だ。
しかし、コロナ禍で会えない間に、一気に歳をとった。
久しぶりに会った親の背中が想像以上に丸くなっていて、ショックを受けた。

親の近くに住んでいる身内に、
「コロナ禍が心配なのはわかるけど、元気なうちに会っておけ」
と前から言われていた。だから、余計に怖かった。

けれど、会ってみると、親は意外にも毎日楽しそうだった。
私よりよっぽどリア充だ。
けれど、確実に老いに突き進んでいるのはわかる。

うちの親はとても厳しかったが、歳を取るにつれてどんどん丸くなった。
特に母は歳を取るにつれて人の話を聞くのが上手になって、
新旧の友達からひっきりなしに電話がくるほどだ。そんな母を見ていると、
こういう歳の取り方もあるんだなと我が親ながら感心する。
子どもの頃から苦労を重ねた母は、「今が一番幸せ」という。
それを聞いて嬉しいと思うとともに、
私が見ていた親の姿なんてほんの一部だったのだと改めて思う。

今は元気だが、いつまでも親とこうして会話が成り立つとは限らない。
そう考えると、どんどんいろんなこだわりを脱ぎ捨てていく親を見ていると、
どんどん遠くにいってしまうような気がして怖くなる。

もっと会いに行きたいけれど、
自分の暮らしや仕事、やるべきこともあって、そうそう行けない。
いや、それは言い訳で、
私は親の老いを認めたくなくて逃げているのかもしれない。
実家に帰ると、今度は離れるのが辛くなる。
そうして思い浮かぶのが、冒頭の「僕のジレンマ」の歌詞なのだ。

そんなことを考えていた時、NHKの「ドキュメント72時間」という番組を見た。
東京・五反田にある法相宗のお寺・薬師寺東京別院で3日間カメラを回し、
写経にやってくる人々の姿を追ったものだ。

私も数年前から年に二回、写経に行くようになった。
流産してしまった子たちの供養のためだ。
それもあって、この番組に惹きつけられた。

番組の中では、さまざまな人々が、
いろいろな理由や思いで写経にやってきていた。
その中に、夜勤明けのタクシードライバーの男性がいた。
その人は、親の誕生日に写経に来るのだという。
以前は誕生日に食べものなどを贈っていたが、親が認知症になり、
施設に入っているという。何かを贈ってもわからないけれど、
親のために何かしたい。
あなたを思っている人がいるんだよということを何らかの形で伝えたくて、
というようなことをおっしゃっていた
(私の記憶なので、正確でないかもしれない)。

その方にとっては、自分の思いを形にして届けるものが、写経というわけだ。
それを聞いて、「そういう考え方もあるのか!」と衝撃を受けた。
私にとって写経は供養の意味合いが大きいものだったが、
こんなふうに「自分の思いをのせる」「自分の思いを手渡す」写経もあることを
知って、目から鱗が落ちる思いがした。

ある意味、それは自分の感情を「消化・昇華」するものとも言えるし、
見方によっては「自分のため」とも言えるかもしれない。

けれど、こうして誰かを思うこと、そうしたあり方は、
宗派は違うが最澄の「一隅を照らす」に通じるのかもしれない。

親の誕生日に写経をする。
あの人が幸せでありますようにと願う。
そう思える相手がいること。
幸福とはこういうことなのかもしれない

ところで。私がここに書いていることは、
随分と感傷的なことだという自覚がある。
実際の介護はもっとシビアなものだと思う。
私の想像もつかない現実を生きている方もいるだろう。
そのことに、頭が下がる。
今の私はとても甘いと思うが、無知な人間だと思って許してほしい。

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