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退屈な桃。


たくさん桃をいただいた。私の住んでいるところは果物の産地で、この時期は桃が出回る。毎年、知り合いの業者から桃をいただくのだ。贅沢な話かもしれない。


大きな箱に綺麗な桃が丹念に並べられているのを見ると、幸せな気分になる。もちろん桃は、食べるのが一番幸せ。出回りはじめて時間が経っていない桃は、なにより食感がいい。噛むとパリパリとした歯ごたえがある。柿もそうだが、熟してふにゃっとした食感のものより、瑞々しい弾力のあるほうが好きだ。


皆で美味しいと舌鼓を打ち、大量の桃を食べ切った。大満足だ。もう充分、満たされた。しかし桃は、簡単に私たちを逃がしてくれない。ほどなく第2ウェーブが来る。また桃が届く。段ボールに二箱も届く。丹念に並べられた大量の桃を眺めて、途方に暮れる。


桃が退屈になってくる。しかしながら、桃はありがたいもの。ひとつひとつが工芸品のように大事に育てられたものなのだ。そんな桃が退屈だと感じる自分を残念に感じる。「桃が退屈だ」なんて、口が裂けても声には出せない。代わりにこう言う。「いやぁ、ちょっと困っちゃったねぇ」


とりあえず桃を頬張る。もう、美味しいのは分かっている。とにかく食べる。黙々と食べる。早く食べないと、腐る。桃はだいぶ熟し、変色も進む。食感もすでにパリパリではない。ぬちゃ。でろーん。そんな感じだ。素晴らしく甘く、天国の食べ物といって差し支えないが、もう、いいです。脳がそう言っている。脳を無視して食べる。脳をいじめて食べる。


いつだったか、桃農家の人に、「ここで働いてると、桃が毎日食べれるから、いいですよね」とか呑気なことを聞いたことがあったが、私と年齢が変わらなそうな若い桃農家さんは、さらっと、「もう、飽きました」と言っていた。私も飽きました。あの桃農家さんの退屈が身に沁みてくる。桃はもういい。


ひと箱食べ終わった。残り、もうひと箱あるが、桃のすべてに退屈した。桃に対して感情が湧かない。風景すらも退屈になる。すこし街を離れて田舎へ向かうと農地があり、たくさんの果樹が並んでいる。桃の出所がそこだ。枝にぶら下がっている。まだまだ無数にある。次々熟しつつあり、腐りつつあるこれらを、私だけではない、皆で食べ尽くさなければならないのだ。いまさら、原理が見えた気がした。


果樹園の脇にある直売所で、今年の桃を親戚へ贈った。そのうち、親戚からこちらへも美味しいものが届くだろう。北に住む親戚からは蟹が、南に住む親戚からは蜜柑が届く。毎年、私は舌鼓を打つ。そして来年のこの季節、私はまた桃を送る。優雅な形をし、素晴らしく甘く、とてつもなく退屈な桃を贈る。他所に原理を押し付けるのだ。


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