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みんなに愛される自殺の名所。


人からどこに住んでいるかを聞かれて、「○○町ですよ」と答えると、勘の良い人は、「それってさぁ、○○橋の近くじゃないの?」と聞き返してくることがある。その通りだと伝えると、途端に「自殺の名所の近くに住む人」ということで、職場内でにわかに存在感が増したような気がする。あくまで、気がするだけだ。


全国の心霊スポットをまとめたWEBサイトも無数にあるが、そういうところで、私が住んでいるあたりの心霊スポットを眺めると、「横向ロッジ」やら「弁天山の廃屋」といった有名どころと肩を並べるように、「○○橋」も紹介されている。あるサイトでは、実際に○○橋を訪れた人の感想として、「あの名高い○○橋にようやく訪れることができた……」みたいに書かれていた。福島県民としては胸を張るべきなのだろうか。よく分からない。


その○○橋だが、私の自宅から車で5分程度の所にある。いまも月に数回は通る場所だ。渓谷に架かった、そこそこ長く、とても頑丈そうな橋。渓谷を流れる川面との高低差は、軽く50メートルを超える。私の印象としては、不気味さなど微塵も感じない。特に晴れた日の眺望は、雄大さを感じるほど素晴らしい。そもそもこのあたりは景勝地であるため、橋の上から景色を眺めている人だって、ごく普通にいる。


何度か、人を○○橋へ案内したことがある。もちろん自殺の名所=心霊スポットを堪能したいとのリクエストにこたえる形だ。時間帯は、逢魔が時だったり、丑三つ時だったりした。日が落ちかけていたり、真っ暗だったりすると、確かに雰囲気はずいぶんと変わる。我々を拒むかのように、闇に沈む渓谷から荒々しい風が吹き上げてきたこともあった。


でも、正直いって、なにも起らなかった。周りの人が、ぎゃー、ぐわー、とか騒いでいただけだ。一度、野生のたぬきを見かけたことがある。かわいかった。幽霊なんてどこにいるのやら。私が見えてないだけかもしれず、周りの人に聞いてもみたが、「変な音したー!!」「呪われたー!!」などと、皆それぞれ楽しんでもらえたみたいだったのでよかった。


一時期、自宅からこの○○橋までをジョギングコースにしていたことがある。橋の手前に、そこそこ広い駐車場と自販機があるので、そこまで走って飲み物を買って飲んで休憩をとり、また家に戻るというコース。ちょうどいい距離感だった。橋の手前までは長閑な田舎の風景が広がる。頭上を鳥が音もなく円を描き、ときおり蝶が惑わすように舞う。季節によって田んぼの色彩も変わった。案外、道路は交通量が多く、そのわりに歩道のない箇所もあり、少々気を使うところがある。


それでも、橋までのジョギングは爽快だ。橋の真ん中まで歩いていき、渓谷から吹き上げる風に当たると、汗が静かに引いていく。なぜ、この橋から死ぬのだろう。橋の欄干には、頑丈な落下防止用の柵が立てられている。この柵が整備されて、10年は経つだろうか。高さは2メートルほどある。柵は内側へ少し婉曲している。この微妙な調整が、死を食い止めることに、どれほど関係があるのだろう。


しかし、実際にはこの10年間に、この内側に反った柵を乗り越え、人が何人も飛び下りた事実がある。そう思うと、いまさら驚愕する。この高い頑丈な柵を飛び越えて、渓谷へ落下する……どれほどの意志力だろうか。柵には簡単に足をかけられるようなところも、ない。


しばらくジョギングを続けていると、この○○橋が、自殺の名所と呼ばれるからといって、忌避など微塵もされていないことが分かってきた。あるときは、橋の袂にキャンパスを立てて絵筆を走らせている人がいた。あるときは、橋の反対側から走ってきたランナーと会釈を返した。あるときは、麦わら帽子と虫取り網をもった子供たちが、橋の袂から渓谷へ沿うように続いている細い道を並んで降りていった。


そこには、人が生活の流れの中で橋に立ち寄る、日常的な光景があった。ならば、橋から飛び降りるのも日常の範疇だろうか。そうかもしれない。自殺とは、まるで自分たちとは違う世界の住人がするものだと考えてしまいそうだが、現実には、誰かしらがこの橋までジョギングすることも、また、誰かしらがこの橋から飛び降りることも、生活の平行線上にある普遍的な営みでさえあることを、この橋は示しているのではないか。橋は人の行為を忌避しない。ひたすら、人の営みにじっと耐久しているだけだ。


忌避するのは人ばかり。畏怖を感じて、そのエリアごと意識的に区別してしまうと、自分の身が安全になる気がするのかもしれない。でも、実際には違う。人がここから飛び降りようとする、そもそもの意思の種は、橋に来る前に植え付けられるものだ。この橋に来たからといって、突如、植え付けられるのではないだろう。確信はできないけれど。いずれにせよ、橋自体を恐れても、何か変わるわけではない。


かといって、自殺に至らないよう、日常的になるべく充実した生活を送ろうだとか、そんなことを言いたいわけじゃない。私は自殺を良いとも悪いとも感じない。私が橋へ向かってジョギングをし、同じようにジョギングをしている人を見かけて、仲間でも見つけたように勝手に嬉しく感じるのと同じく、この橋から飛び降りた人がいるという事実が、ここから谷底へ飛び降りることのできる安心感を、誰かに与えることもあるかもしれない。


そして人は、これからもずっと人に感化され、人を真似て、行為をつなげていく。そのあたりに差は無いのだろう。人の思惑や意思は移ろいやすく、計り知れないが、橋はひたすら頑丈で、今日もじっとしている。

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