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もっと鷹揚な愛情

なんでも言葉にすればいいと思っていた頃もあったけど、言葉にだすと意味が変わってしまうこともあるとわかったから、正しく伝える方法が見つかるまでしっかりと口を紡いでおこうと思った。



恋愛映画とか友情ドラマとか、言葉を交わさないことによって生じる"転"がいつも付き纏っていて、その幼少期の記憶が私たちを言語コミュニケーションに縛り付けてるんじゃないかなと思う。
話せばわかるとか、言葉にしなきゃ伝わらないとかいうけど、でも本当にそうだろうか。

発話は、いつでも要求をはらんでしまう。
「さみしい」と言えば、それは「おいていかないで」という要求をはらんでいるし、たとえ言った方がそう思っていなくても、相手に伝えるというのは、そういう余剰の意味を上乗せしてしまうことなのだと思う。

たださみしさをあるがままに感じて、相手の存在の欠落をまざまざと知って、孤独であることを体感するときって確かにあるのだ。今すぐ飛んできてほしいわけじゃなくて、欠如感に縁取られるように大切な相手を想起するようなときがある。

でもそれを言葉にして伝えようとすると、どうしたって音階がひとつふたつずれてしまう。愛情を口にしているはずなのに、どうしてなのか、気がつけば、制約、欲求、呪縛のような言葉が流れていく。

だからそういうときは、一人で密かにさみしさを抱えようと思った。すべてを伝えて安心できるのはいつも伝えた側の人間だけだ。

「嘘をつきました」といって罪を精算できるのは告白した側だけで、された側は裏切りの悲しさを一生背負うことになる。

言葉はどこまでいっても、どんなにやわらかく語ったとしても、どうしても人を縛り付けてしまう。「すき」も「あいしてる」も、結局は要求だ。

だからしばらくは、何も語らぬまま、しずかに抱きしめるように、人を大切にできたらと思う。そういうとき体温や香りでもって、言外に愛情を伝える術を身に付けられたらいい。

もっと鷹揚に、名づけられないあたたかさで、大切な人たちをつつみたい。なににも縛りつけない仕方で。

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