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『もののけ姫』in モスクワ ①

サン「もう終わりだ。なにもかも。森は死んだ」
アシタカ「まだ終わらない。私たちが生きているのだから」

宮崎駿監督『もののけ姫』

 モスクワに留学してはや五ヶ月。様々な葛藤はありつつも、モスクワ生活は思った以上に楽しく、興味深く、まだ離れたくないなあと思う日々です。

 モスクワに来てまで何をしているんだ…と思わなくもないですが、なぜかモスクワの映画館で放映していたもののけ姫を見に行ってきました。これ著作権とか大丈夫なのだろうか。まあロシアだしな…。
吹き替えなし、ロシア語字幕バージョンなので、まだほとんどロシア語がわからない私でも大丈夫でした(でも語学力は大丈夫じゃない)。
結果、数年ぶりにもののけ姫熱が再発しました。好き…
いろいろ思うところというか、日本で見た時には感じなかったことを感じたので、記録のために感想として残しておこうと思います。
当然がっつりネタバレをしておりますので、まだ見ておられない方は、noteをそっと閉じていますぐもののけ姫を見てください。Пожалуйста.

初っ端から泣く

 涙もろい方ではありました。ありましたが、初っ端から泣いたのは初めてでした。何が涙腺に来たかというと、自然の描写です。最初の山々の描写から、アシタカが服をかついで川を渡るシーンまで、全部がひどく懐かしく感じて、胸に来ました。
 以前山口に住んでいたとき、山は非常に身近な存在でした。もちろん小川も身近な存在で、春になれば桜、夏になればホタル、川に行けばカワセミ、朝山に登れば霧…という風景が日常でした。だからでしょうか。もののけ姫の自然の描写が非常に胸を打ちました。
 モスクワの中心地にいると、山を見ることはまずありません。川は非常に広く船が通ることができるほどです。大きな公園がいくつもあり自然豊かですが、当然植生が違います。同じ「自然」でも、明らかに日本とは異なります。もののけ姫で描かれる「自然」に、日本が懐かしくてたまらなくなりました。気が付いたら泣いていました。あと、「アシタカせっ記」と「旅立ち~西へ~」の音楽ずるいよ。美しすぎます。泣いちゃうよあんなの。
 私は正直、あまり望郷の念がある方の人間ではないのですが…モスクワに来て初めて日本が恋しくなった瞬間でした。

ひいさまの言葉

ヒイ様「誰にもさだめは変えられない。ただ、待つか自ら赴くかは決められる」

宮崎駿監督『もののけ姫』

 「タタリ神」のシーンが好きすぎるので、久々に大きなスクリーンでこの場面を見ることができたことに大歓喜しました。一緒に見に行ったロシア出身の友達はタタリ神にドン引きしてました(笑
まず音楽がすごくいいんですよね…。ここでふと思ったのですが、ロシアの方々、タタリ神という概念を理解することができるのでしょうか。字幕ではそのままの表記ではなくなんらかのロシア語に訳されていたようなのですが…メモしておけばよかった…三回目見に行こうかな…
そして、「この地に塚を立て御霊をお祭りします」という言葉も、果たしてロシアの方々に通じるのでしょうか…?日本では「怖いものを祀って鎮める」という文化がありますが、ロシアではどうなのでしょうか?
それから、アシタカがよく口にする「鎮まりたまえ!」も。ロシア語に「鎮まりたまえ!」に該当するロシア語って存在するのでしょうか?

 私が序盤で最も好きなセリフは、引用で紹介したヒイ様のセリフです。右腕に受けた呪いのせいで、目に見える形で「死」が現れたアシタカ。ここで私がすごいと思うのは、アシタカが「タタリ神」を含め誰のことも恨んだり憎んだりしないこと。私だったら確実に、誰かや何かを強く恨むと思います。アシタカは今後も一貫して、ヒトや神を恨むことはないんですよね…怒りはしても…本当に仏様みたいな人…
 話が逸れました、ヒイ様の話だった。アシタカに呪いのことを告げたヒイ様は、さだめは変えられないと言いながらも、アシタカに言います。さだめは変えられない。できることは、ただ待つか、行動するかを選ぶことだけ。
ここで私は、フランクルの『夜と霧』の一節を思い出しました。

人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(みすず書房)

 私はずっと、この言葉に希望を見い出し続けています。そして、これは人類全体の希望であると個人的には思っています。人はいずれ死ぬ、これはさだめです。変えることはできません。ほかにもさまざまな理不尽がこの世にはあります。どんなにがんじがらめで、何もできないように思えたとしても、人間には最後の自由があります。いかにふるまうか。いかに行動するか。待つのか、それとも赴くのか。
 アシタカを見ていると、ニーバーの祈りを思い出します。

主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと、
変えられるものを変える勇気と、
その両者を見分ける英知を
我に与え給え

渡辺和子訳

 アシタカは、自らの運命を静かに受け入れます。彼は自分の運命に何も文句を言わない。弱音すら吐かない。あざが広がろうと、痛みが強かろうと、彼は静かに受け入れます。
しかし、森とたたら場のことに関しては違います。彼は双方が殺し合う未来を避けさせようと努力をする。自分はよそ者だからとみて見ないふりをするでもなく、仕方がないと受け入れるでもなく、変えようと努力をします。私はアシタカのこの「曇りなき眼(まなこ)」が大好きです。かっこよすぎる。

ジコ坊のかっこよさ

ジコ坊「戦、行き倒れ、病に飢え。人界は恨みを残した亡者でひしめいとる。タタリというなら、この世はタタリそのもの」
「肝心なことは、死に食われぬことだ。いや、これは師匠の受け売りだがな」

宮崎駿監督『もののけ姫』

 私がモスクワに来てから、世界ではいろいろなことが起こりました。イスラエルとパレスチナのこと。続くウクライナとモスクワのこと。日本で起こった大きな地震のこと。自分が普通に生活していることに対して、私は強い引け目を感じてしまいます。何もできない、自分のことで精いっぱいで、いま苦しんでいる人のことを助けられない自分に対して強い憤りと無力感を感じます。この感情はモスクワに来てからかなり強くなりました。
 私にとって、ジコ坊のこのセリフはかなり刺さるものがありました。私が恨みを残した亡者にできることは、祈ること以外に何もない。大切なのは、私が死に食われてしまわないこと。自分を「生きる」こと。ところでもののけ姫のキャッチコピーは「生きろ」なのですが、個人的にはこの映画の本質をつかんだとてもいい言葉だと思います。

 この映画の中でジコ坊は一貫して「大人」だと思います。エボシ様は個人的には活動家というか、夢や理想を見ている部分がある、どちらかというとロマンチストだと思うのですが、ジコ坊は一貫してリアリストです。理想的なお勤め人だと思います。彼は指示されたことが正しいかどうか、理解できるかどうかには全く興味がありません。というか、理解しようともしません。彼は言われたことをこなすのみです。

ジコ坊「やんごとなき御方の考えることなど分からん。いや、分からん方が良い」

 かといって、彼に人の心がないわけでもない。どころか、ジコ坊は非常に人間味あふれる人です(この観点からいくと、アシタカの方がよほど人間離れしていると思います)。
自分を助けてくれたアシタカを金銭が絡むやりとりで助けるし、最後、シシ神の首を運んでいる最中にアシタカに止められたときでさえ、「おぬし、生きとったか!よかった!」と素直に喜んでいます。首を追うディダラボッチに追っかけられているとき、しかも邪魔をされたのにもかかわらず、アシタカが生きていることを喜ぶ、この根っこに善性を宿しているところが私はとても好きです。
 あと、普通に強いんですよねジコ坊。太鼓腹なのにヤックルと並走して走るだけの足の速さがあるし。アシタカに出会ったときに「そなたに助けられたのだ!」と言ってましたけど、ほんまか…?絶対一人でも勝てたじゃろ。

字幕の難しさ

 私は悲しいことにまだロシア語が全然できないのですが、そんな私でもロシア語の字幕に何度か違和感を覚えることがありました。個人的に大事な場面の訳が抜かされていたこともあり、少々もにょりながら字幕を眺めていました。
 ただ、そもそももののけ姫を外国語に翻訳すること自体が難しいのかなとも強く思います。まず「浅野の公方」や「たたら場」、「タタリ神」など、日本特有の文化的・歴史的な背景を理解しなければならないですし、「自然への畏れ」という概念がそもそも外国の方に理解していただけるかどうか少し疑問にも思います。
 「犬神」の翻訳が「Волк(オオカミ)」だったのも、「あぁっ、ちゃう…」となりました。ちゃう…オオカミちゃう…でも「犬神」と翻訳してもわからないよね…。というか、動物が神様になるという考え方は理解してもらえるのだろうか…?

 あと、日本語には人称代名詞が多いんですよね。個人的には、人称代名詞は人間同士の関係性を示す言葉だと思っているので、映画やアニメ、本において非常に大切なキーだと思うんです。例えば、牛飼いの頭がアシタカを呼ぶときの「旦那」。これはアシタカへの尊敬の念を感じます。大してゴンザはアシタカを「貴様!」と呼びます。敵意を感じる呼び方です。この人称代名詞の微妙なニュアンスを全部的確に訳すのは本当に大変だと思います…
 ちなみに、作中きっての名台詞「黙れ小僧!」、「小僧」が「Щенок」と訳されていたのはめちゃくちゃいい訳だと思いました。

 それから、もののけ姫に出てくる言葉、古い言葉が使われているんですよね。普段使いしない言葉も頻繁に出てくる。顕著なのは「鎮まり給え!」。これ本当なんて訳したんだろうか?冒頭のタタリ神のシーンでは「止まれ!」と訳されていた気がします…やっぱりもう一回見に行こうかな…。確かに意味合いとしては「止まれ」で合っているのですが、ちょっと違うんですよね。神様に「止まれ!」とは言わない。アシタカはタタリ神のことを畏敬の念をもって「給え」と言っていると思うんです。

②へ続く

 13時から書き始めて、15時まで無我夢中で書いていました。気が付いたら4千字。モスクワで何をやっているんだ私は…。
アシタカの何に感嘆したか、サンの苦しみ、エボシへの共感、映画鑑賞中のロシアの方々の反応など、まだ書きたいことがございますので、おそらく②に続くかと思います。
 取り急ぎ、最後までご覧くださりありがとうございました。

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