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フィールド・オブ・メモリー

ジョギングコースの中に、駒沢オリンピック公園がある。一周2km強のランニングコースがメイン競技施設を取り囲んでいる。休日の朝には、早起きしたシニアの集団が、裸足でのんびり歩いている風景を、よく見かけた。もちろん、コロナ前の話だ。
前回のオリンピックの時に建てられた、特徴的なフォルムの陸上競技場やアーチが天井を吊る形状の屋根の体育館など、昭和文化遺産としても見る価値は高い。その中でも印象的なのは、中央広場だ。公園の下を通る駒沢通りからつながる幅が80mもある大階段は、13段ごとに踊り場があり、どこに座っても気持ちよい広がりを感じる。その階段を駆け上がる気分は、映画史に残る名シーン、フィラデルフィア美術館につながるロッキー・ステップを思い出させ、テーマ音楽が頭の中で鳴り響く。階段を上り切った先には、都会の真ん中にポッカリ空いた、やたらと空の広い2ヘクタールもある広場が広がる。涼しげな木陰やパブリックアートのようなアメニティは無く、空間の広さが際立つ。近隣の高層マンションは、公園を囲む緑の壁の向こうにあるため、隠れ家的な聖域感に包まれている。広場の床面には、廃止された都電の線路の敷石が再利用され、その美しいパターンはヨーロッパの広場を思わせる。
広場では、皆が思い思いの時間を過ごしている。午後に競技を控えたランナーは、入念にストレッチをしている。この日のためにしてきた努力を信じ、祈るような表情で鋭いダッシュを繰り返す。かたや、自粛中の家から飛び出した子供達は、シャボン玉を吹き追いかけて、転んで泣いてまた走る。泣いてる時間ももったいないと言うように、失った外での時間を取り戻そうと、子供たちは無闇に走る。マスク無用な開放感が広場を支配している。子供達にとって、家族と友達を区別する垣根は低く、マスクは憎っくき代物だ。遊んでいるうちに外れたって、かまいやしない。広場には背の高い障害物が無く見通しが良いため、お母さんたちは、安心しておしゃべりに夢中になっていて気づかない。しばらくすると人手が増えてきた。バトミントンを始めるカップル、一輪車を練習する女の子、凧を飛ばす親子連れ、楽器を練習する学生。週末の陽射しを逃すものかと、外で過ごす時間を愛おしむように、それぞれの春を満喫している。

ヨーロッパにおいての広場は、政治集会や宗教演説などの場としての役割を持つため、遮蔽物を置かずに、都市計画に当然のように組み込まれてきた経緯がある。対して日本では、小公園はあっても、それ以上に大きな広場は準備されなかった。社寺の境内や鎮守の森や河原が集会場としての役割を果たし、大通りが必要に応じて広場の機能を持った。地名に残る広小路や江戸時代の火除明地がその役割を担っていたが、モータリゼーションが進み、空き地の有効活用が謳われると、徐々にその姿を消していった。支配層にとって好ましくない集会場は、区民会館に移され、メイン会場は井戸端へとスケールダウンする。
気候がヨーロッパほど快適でないため、外の空間が発達しなかったという見方もあるが、狭い土地の効率的な運用を考えた時、広さの確保が難しいのが現実だ。緊急時や災害時の避難場所では、学校のグラウンドがその役割を担う。常に外に開かれた場所とは言えず、住民との距離は遠く、フェンスで隔離されている。

開かれた場所を探す時、テレビの中に思いがけず、広い空間や特徴的な建物を見つける時がある。特撮番組における怪人たちとのバトルフィールドだ。駒沢オリンピック公園の中央広場と特徴的なフォルムの体育館も、仮面ライダー2号とピラザウルスの戦いの舞台の背景になった。最後には必ず怪人が爆発するとはいえ、いつも採掘場ばかりで戦う訳にはいかない。生田スタジオの周辺ばかりでロケをしていては、ショッカーの活動範囲があまりにも狭すぎるというものだ。横浜の赤レンガ倉庫や荒川の河川敷、読売ランドや向ヶ丘遊園など、怪人達との出会いは、各地に散らばっている。仮面ライダー1号の本郷猛が通う城南大学研究所には、川崎の長沢浄水場が使われていた。ここは、ウルトラマンシリーズでも度々登場する、特撮の隠れた人気スポットだ。今ほど、情報発信されるわけでもないから、知名度の低いモダン建築も、こうしてフィルムに記録され、密かに文化遺産となっていく。当時の車やファッションなどの風俗と一緒に、ライダーや怪人の背景に使われることで、時代を映す風景として残される。
バラエティーや情報番組のブラ歩きで街を紹介されても、飲食店や商店街にしかスポットが当たらない。実写をトレースしてアニメ化がされたとしても、個人の思い出には焼きつかない。「花束みたいな恋をした」のように、googleストリートビューで映り込んだあの日の風景が、世界の時間を巻き戻してくれる。
特別ではない風景でも、暖かな陽射しや聞き慣れた街の喧騒が、艶やかに記憶を補強する。頬を撫でる風やれんげ畑の甘い匂いの記憶と一緒に、懐かしい時間を呼び覚ます。絵では届かない記憶を、画が引き寄せてくれる。
街を再生しようとすると、デベロッパーの意向が強く働き、手っ取り早い建物の解体が進み、街並みが変えられる。昔住んでいた街を訪ねたら、思い出が再現できないほど、ありふれて無機質な姿になっていることがある。目印にしていた角のタバコ屋は駐車場になり、揚げたてのコロッケを買っていた肉屋はコンビニに変わり、記憶と共に自分の存在が薄くなったように感じる。角を曲がったその先は、もはや自分の知らない世界だ。場所から時間が奪われ、セピアだった思い出が、灰色に塗り込められていく。戻れない時間を強く感じる。

不発に終わったオリンピック需要のせいで、東京にも街の墓標は増え続け、記憶が虫食い状態になっている。事(コト)を信じた2010年代は終わり、これからは、場(バ)への回帰が予想される。以前は、承認の獲得が存在理由の証明であるかのように、個人の思い出は不特定多数へと拡散されていた。パンデミックの影を背負う世界では、近しい人との関係性が見直され、物質と精神の二重の場が見直されるだろう。敵味方を分断する世界的な保守化の進行は個人のレベルにまで影響し、外の顔と内の顔の使い分けが進む。ビジネスはオンラインで済ませられるが、私生活では、安心出来るオフラインのサークルへの帰属が進む。存在に直に触れられる手触りは、個人間の繋がりに強く作用する。時間と場所を共有する安心感が、結束を固くし、信じられるのは共通の体験で、味方とそれ以外に分けられる。正しいかどうかではなく、信じられるかどうかだ。

夕闇が迫り、見えにくくなったボールの白さが、夕飯の時間を知らせている。ちょっと散歩で広場へ来たつもりが、ずいぶん遠くまで来てしまったようだ。

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