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「まち」づくりではなく「みち」づくり

2016年に書いたものなのですが、今見てもあまり考えていることは変わらないので、ちょっとだけ内容変更してお届けします!

■まちづくりって・・

「まちづくり」、ホント色々なところで今だに目にするけど、明確に「まちづくり」を定義することができる人っているんですかね?誰かいたら教えて欲しい。

僕はたまたま大森の商店街という場所を拠点にできたおかげで、その「まちづくり」ということをなんとなくテーマに置いて最初はやってました。でもずうっと頭に違和感があった、具体的に何ができればまちづくりなの?ということの答えが曖昧というかわからなかったんだけど、「この考え自体間違っているのでは?」と思いました。

「まちづくり」・・・
それは洒落たビルを建てること、かっこいいコミュニティスペースを作ること?団体を作ること、イベントを作ること?町の仕事をすること、メディアに取材されること?

どれが定義か僕にはわからない。

■振り返ってみると・・

根本の話、僕が大森に引っ越してきたのは大田区の外れで目の前の通りの向こう側にあるのは品川区とだった。当時うちは大田区民なので、大田区の情報は目にするけど、品川区の情報は基本入ってこない。目の前ですよ?その通りの差はなんだろう、それがきっかけで大森コレカラカイギというのを作り、自治区とは違うレイヤーでもっと幅広い視点を持ちたいということで始めたけど、結局その差は未だによくわかっていない。

大森で考えた場合、山王や大森北は大森だろうけど、平和島は大森なの?中央は?南大井は?西大井は?どこまでが大森で、どこからが違うまち、結局その境目って主観でしかな無いんだと思う。

けど、人って主観。そう考えた場合に何を持ってまちづくりなのかよくわからなくなってきた。それに何を持って喜べばいいのか、何がゴールなのか。

■僕らは人間である

と考えた時に、野口体操の創始者である野口三千三先生の本「原初生命体としての人間」の中に書いてあった「人間」の話、まちの主役は「人間」であると仮定する。
その部分は下記から。

「ヒト」「人」「人類」「人間」と並べてみる。私の限りない興味をそそるのは「人間」である。体操とはからだの動きを手掛かりにして、人間とは何かを探検する営みである、と考えるようになってから、人間の本質は「間」にあると思うようになった。〜中略〜
時間的・空間的な間(ま)の問題一つを探っていくだけでも気が遠くなるほど奥深い。人と人との間(あいだ)すなわち間を関係と捉えてみると、あまりにも問題が広がって来て手に負えなくなる。私は「唯関係論」などと勝手によんでこのことをからだの中で探り続けてきた。「もの」の関係およびその変化を「こと」と考えて、「唯こと論」などと呼びかえてみる。そして、「体操とは、今「もの」であるからだを、「こと」としてのからだに生まれ変えらせようとする営みである」
〜原初生命体としての人間 P248〜

つまり存在する「間」に関係性や変化を生む、漠然とした「もの」から想像できる「こと」として変化させていくことが大事なんではないだろうか?

僕はこれまで自分の名前(町田)に縛られることが意外に楽しかった(生粋のM気質)ということであまり考えずに「まち」にこだわってきた。けど、逆に言うとそれが原因でぼやけたことしかできなかったのでは無いかという気すらしてきた。それまでの全体(まち)にアプローチしたいということが間違ってるってことなんじゃ無いかと今更気づいた。

みんなもう知ってるの?たどり着いてるの?
そして「みんな」は存在しないということを。

■まちづくりからみちづくりへ

でもね、そこから気づいたわけです。「まち」の「ま」の文字を一文字ずらすと「み」。つまり「みち」なんですよね。つまり、まちづくりではなく、みちづくり。

点と点をつなぐ、つまり、僕と誰か、誰かと誰かに接点ができる、明確に相手をイメージした上で、そこをつなぐような施策を打つ。そこで接点ができればそこには1本の道ができる。つまり「間」の話ですよね。その「みち」がたくさんあるだけ活性化だしまちづくりなのでは無いだろうか?

その方がわかりやすい。
そしてこの話は「社会」という言葉とも同じだと思う。つまり「みち」の総和、俯瞰して見た物が「まち」であるということ。

もうそんなことみんな知ってるのか!
だからもう一度言うけど、「まちづくり」ではなく「みちづくり」。

「おーい、誰か!」
ではなく、君に届かさないといけないってことだ。
「この指とまれ」ではなく「君にこの指をあげよう」だ。

幸いなことに僕には「路(みち)」という名前が付いている、「町」ではなく「路」。
頭ではなく、お尻に答えがあったのか!そうだ、僕はおしりが好きだ、もっともっと様々な角度からお尻を愛せるようにならないとダメだということですね。お尻は後ろについている。お尻が身体の前になかったっていうことはきっと必然なのだ。

と個人的な趣味を話してしまったが、詰まるところ、これはビールでも同じで、どれだけ「みち」を作れるか、いや「みち」のきっかけが作れるか、それがきっとカギな気がする。

そして「道」は「未知」というのがとても好きだ。カギを開ける感じで、それはお尻よりも。

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