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看護学生のインタビューレポートから:那覇出身で熊本在住の父の祖国復帰体験

*写真はネットから拝借しました。

祖国復帰の頃について


語り手: 男性  60代  那覇市出身  熊本在住  Y氏  父

私の父親は沖縄県出身で私自身は、生まれも育ちも熊本県出身だ。小さい頃はよく沖縄に祖父母に会いに訪れていたが、沖縄の歴史や言葉など深く考えたこともなかった。そのうえ、父親からも沖縄についてよく話しを聞かされてきたが、当時は興味もなく聞き流していた事が多かった。しかし、今年から沖縄に引っ越して、歴史や言葉、文化など身近に感じる様になり、沖縄のことについて知りたくなった。そして、授業で祖国復帰の内容を聞いたときに、昔父親から祖国復帰前の話しを聞いたことを思い出し、太平洋戦争後のアメリカ統治の頃から日本復帰まで沖縄がどのような生活をしていたのか興味が沸いた為、さらに深く知りたいと思い、このテーマを選んだ。

【インタービュー内容】
Q 生まれは那覇市出身だった?
A そうだよ。

Q 祖国復帰前と復帰後のことについて聞かせて?
A あー、復帰前と復帰後ね。1972年、高校1年生の5月15日に復帰したったい。日本国になったわけ。

Q よく覚えてるね!
A 沖縄住民は全員覚えとるたい!5月15日、本土復帰って!だからそれまでは、復帰前は琉球政府立だったったい。

Q え!復帰前の沖縄の名前が?
A そう!だから県立高校は、1972年5月15日までは、琉球政府立○○高校で、復帰後の1972年5月16日から沖縄県立○○高校に変更になったわけ。沖縄は、中国とか他を見るのに丁度良い場所だったもんだから、まぁそれでアメリカが統治することになって、だからアメリカの統治国になったわけたい。それで、那覇の自分の家のすぐ後ろも少し高台でそこも米軍基地だったったい。そこも金網がはられて、ずっっとー、与儀小学校の裏側まではられとったたいね!そこにジェット燃料タンクが置かれとったったい。まぁ、そうゆういきさつで、良い場所は、米軍が小禄とか土地を全部強引に排除して基地にしたわけ。だから、戦後那覇市は道が狭い状態の所に家が建てられて、そしてそれが、那覇の始まりだったわけ。沖縄住民は、すみっこに追いやられたわけたいね。
那覇市内とかは、一家全滅の所が多かったわけたい。だから土地とかは誰の土地なのか分からない状態だった。

Q 祖国復帰前、後はどのように変わった?
A 沖縄は、ドルに変わってって、ドル社会になった。そして、車も右側通行になったったいね。日本国は左側通行たいね。まぁ、交通はそのようになって、経済は、ドルに変わっていったわけね。あ!そうそう、復帰する直前?昭和46年にドルショックがあったわけたい。

Q ドルショックって何?
A アメリカが1ドル360円だった固定レートを1ドル308円にしたわけたい。それが、復帰前直前だったわけたい。だから、沖縄で1ドル持ってたから、それまでに日本復帰してたら360円に替えられたわけたいね。ところが、ドルショックで全世界と、まぁ日本国にも相当打撃を受けたわけよね。そして、沖縄も1ドル持っとるやろ、それまでは、360円に交換できたのに308円に変わったせいで、52円損じゃん?それで、大混乱を起こしたわけたい。それがドルショックたい。まぁ、逆に言うと日本の円の価値が上がって、ドルの価値が下がったてことたいね。それで、昭和46年にドルショックがあって、日本国もそうだけど、沖縄県民も大不満だったわけたいね。
復帰前から徐々に、「ドルと円も両方使っていいですよー」と、復帰後もしばらくはドルから円に変わる猶予期間が前後にあったったい。だから、その時に初めて日本円てゆうのを見たわけたい。で、父親もドルで給料をもらってたね。

Q 復帰後はどのような事が大変だった?
A うーん。まぁ、復帰してからドルから円に変わっていって、レート換算表を持ってたね。昔母親が野菜、油、塩、酒、お菓子、ジュースとかそれらを仕入れてきて商売してたわけたい。それで皆んながドルで払ったり、円で払ったりするから訳分からんたい?頭が混乱するわけたい。だからレート換算表を見ながら対応してたわけ。円に慣れるまでに1年ぐらいかかったわけ。すぐには頭の中で切り替わらんかったねー。そして、円に変わった時は円の価値がわからなかったからその時に乗じて、どさくさに紛れてぼったくるわけたい。それを便乗値上げと言って、そうゆう業者がいたわけたい。円の価値が分からない事につけ込んで便乗値上げをコソッとするわけたいね。だから便乗値上げを防ぐためにレート換算表が手放せなかったわけたいね。
それから、車の通行、人の通行も右から左に変わるのに10年近くかけて変わったわけよ。信号機など、全部切り替えるから大変なわけじゃん。だから、復帰した時は一気に変わらんかったたいね。それと、無識に右と左を間違えずに歩く事が出来たのは1年くらいかかったね。それまでは、「あ、左だよね」て意識して歩いとった。まぁ、慣れるまで結構時間かかったね。
そう言えば!沖縄では、昭和35年?まぁ自分が幼稚園の時にテレビ放送が始まって、自分が小学校1〜2年の時にやっとテレビを父親が買ったわけたいね。で、その時に鉄腕アトム、月光仮面とかが始まって、皆んな真似して遊んでたわけ。で、4年生の時にウルトラマンがスタートしたわけ。そのウルトラマンシリーズの脚本を沖縄県出身の金城哲夫て言う人が担当してたんじゃないかな。ところが、その時の沖縄の文化で言うのが、結局本土に対して相当根に持ってったてゆうか「本土かぶれの人間が」て言ってた時代だったわけ。せっかく沖縄の人間がウルトラマンの脚本を担当してたのに一切ニュースにもならなかったね。だから誰も知らなかったよ。まぁ、そうゆう事もあったね…。
沖縄県民は、本土復帰の条件が「本土並みに生活水準を上げてくれ」、「犯罪も無くしてくれ」、「本土並みに基地を減らしてくれ」と、返還してもらわないと工場も建てられないし、何もできんわけたい。だって良い場所は、米軍に取られちゃったもんだから。沖縄は戦争で相当な犠牲をはらって、その後も日本国はどんどん高度成長で発達してるのに沖縄は取り残されてた。しかもアメリカの犯罪は昔は、毎日の様に100件くらい事件が起こってた。殺されたりとか色んな事件が起こってたね。でも結局本土並みに願うも全く変わらなかった…。

Q 食文化はどうだった?
A 昔は沖縄は健康食だったけど、戦後アメリカ文化が入ってきて、特にポークランチョンミートを食べてたね。結局手軽な訳よ。味が濃いし、沖縄県民は毎日の様に使ってた。母親は洋食が好きだったから、パン食もうちは早かった。パンにバターを塗ったり、ポークランチョンミートをパンに挟んだり、ピーナッツバターを塗って食べたり、アメリカ文化がもろに入ってきたわけ。それで日本1長寿県だったのが、ドーンと下がっていったわけたいね。それと、コカコーラ関係も入ってきたね。コーラは高くて量も少ないから、どちらかと言うとペプシがよく飲まれてたね。それと、昔は、「いっせんまちぐわぁー」てゆうのもあったたいね。

Q いっせんまちぐわぁーの意味は?
A ようするに駄菓子屋で言うことたい。「いっせん」て言うのは、1セントと言う意味で、「まちぐわぁー」は小さいお店と言う意味たいね。当時1セントは、3.6円だったわけ。で、あめ玉が1セントで3個、でも本土では、あめ玉1円で1個。つまり1セントだったら3.6個買えるはずなんだよね。でも本土から沖縄まで持ってくるには船便がかかるから高くなるわけよ。だから熊本で暮らしてた時(人たち)は、皆んな「あめ玉1個1円だったもんね。」て言ってたけど、沖縄は、1セント3個だったから0.6個分損してるわけよ。まぁ、そうゆう事もあったね。

Q 沖縄から18〜19歳頃に熊本に引っ越して不便だった事はあった?
A うーん。熊本に引っ越してまだ右側通行に慣れとったから意識して歩いていたね。冬は、とにかく寒いし、それと、初めて震度4を経験した。沖縄では地震がほとんど無かったから経験した事が無かったもん。台風は経験あったけど。で、当時熊本もね、台風が来なかったったい。だから台風が来たときの危機意識が足りないってゆうか、警報がでて瓦がブンブン飛んでいて、煙突も倒れていて、車も浮きそうな状態の中で、お店が開いていたし、平気でチャリを漕いでいる人間がいた時はびっくりした!!まぁ、今でも台風が来てもお店は開いているけどね、(笑)

【考察】
アメリカ統治によって、沖縄人が日本とアメリカの二つの文化に挟まれながら生活してきた事が分かった。沖縄住民の要望も受け入れられず日本に返還され、沖縄住民は日本に裏切られたという気持ちが沖縄住民のアイデンティティーを強く意識される事になったのだと思われる。父との会話の中で祖国復帰前の生活は、買い物する時の通貨がドルであったということから、ドルがどれだけ浸透していたのかが分かり又、祖国復帰により、ドルから円へと変わるとき、どれだけ沖縄住民への負担や影響、混乱が起きたのかが分かった。さらに昔は、現在よりも米軍基地に囲まれた環境で生活していた事で、行きたいとこにも行けず、またどこに行くにも自由に外を出歩くのが安全ではなかったのだと分かった。アメリカの統治下になった事からドルを使うことが普通の生活になっていき、そして食文化も本土よりも早くファーストフード店ができ、生活もアメリカ文化に影響され、しかしアメリカ軍に対する不信感もあった。生活はアメリカ文化に影響されていたが、アメリカを受け入れてはいなかったと思われる。

【感想】
今回インタービューをして、自分が全く沖縄についてわかっていなかった事に気付かされた。祖国復帰するも、実際には多くの問題が未解決のまま残されており、住民の立場からすると決して満足できるものでなかったと感じた。話しを聞いた点から、沖縄の戦後の生活が日本とアメリカという2つの国に文化の間で大きく変化してきた事がわかった。そして、沖縄は2つの国の文化や政策の間で沖縄人として生きてきた。そのような内容は、学校の授業では教えてもらえなかった。もっと日本国民全員が沖縄の文化や歴史を知るべきだと強く感じた。そして、沖縄文化が現代まで残っている事は、沖縄住民が一生懸命守ってきた証なのではと思う。インタービューを通して祖国復帰前と後についての内容だったが、沖縄の文化や歴史、昔の生活など深くまで聞ける事ができた。もっと沖縄について知りたいと強く感じた。


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