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シマ社会を開く


シマ社会を開く

共同店、公民館、祭りはコモンズを形成する


1. シマ社会の基本構造

シマ社会というのは沖縄における自然村*をいう。日本におけるムラも自然村で、ユイとユイマール、頼母子講と模合などのように、シマとムラはとてもよく似た社会構造を持っている。

* 自然発生的に成立した村で、行政村に対していう。村は、日本はもとより世界的にも自然発生的に成立したものが多い。そして同一の氏神をもち、血縁的にも地縁的にも深い結び付きをもつ社会集団を形成している。冠婚葬祭をはじめとする日常生活の講、組(相互協力)、生産生活の結(ゆい)(相互労力提供)をはじめとして基本的な村落生活は、伝統的な相互扶助的結合によって運営されている。(小学館『日本大百科全書』より)

シマとムラが決定的に異なるのは、ムラと比べてシマが、

①広域の宗教的ネットワークに組み込まれていなかった

②近代以前には土地の私的所有権が確立されていなかった

という点にある。この違いが沖縄の社会を理解するためのキーポイントになる。

日本のムラは神社やお寺が全国的なネットワークで結ばれていた。生まれたら氏子入りをし、亡くなったらお寺に葬られる。そして神主やお坊さんのようなプロの宗教者がコミュニティの人々を導いた。

沖縄のシマは宗教的なネットワークに組み込まれることはなかった。神主や坊さんのようなプロの宗教者はおらず、人間の生死が司るのは、シマの人々であった。

主に女性たちがコミュニティによる人生儀礼を経ることによって、宗教的な祭祀を司ることになる。かつてのシマ社会では素人の高齢の女性たちが家族やコミュニティの霊的な健康、身体的な健康、五穀豊穣を祈った。その祈りによって家族やコミュニティは守られた。

宗教的なネットワークに組み込まれていないため、他シマ(タシマ)の神や聖域を礼拝するという聖地巡礼の文化はなかった、観光産業の多くは聖地巡礼を起源とするものなので、聖地巡礼の文化を持たないシマ社会では、観光産業とのマッチングはむつかしいものとなる。

土地の私的所有権が確立されていなかったために、シマ社会は貧富の格差の発生しづらい社会であり、平等意識が根強い社会であった。そのため上位下達などのヒエラルキーは形成されづらかった。

私的所有権が確立されていないので、贈与互酬経済の要素が強い社会であった。所有の概念は「わたしたちのもの」として表現された。「わたしのもの」という主張は人格的に卑しいとされた。シマ社会においては、分かち合いが最優先されるべきモラルとなっていた。

独立した宗教構造、平等意識に基づく直接民主制、贈与互酬経済がシマ社会の基本構造となる。

2. 分析の視点

この講座では現代沖縄におけるネガティブな諸現象を、逆にポジティブなものに切り替える視点を求める。手法としては構造主義の手法を用いる。

ここでいう構造とは、神話的な世界観をベーシックな文化とし、国家成立以降の歴史的な世界観や近代以降に培われた世界観を表層的なものと見る視点である。そのような作業により、西欧中心主義に基づく近代的価値観が相対化されることになる。

近代的価値観が相対化されるとき、神話的世界観が新たな価値を生み出すものとして再発見されることになる。神話的な世界観は消滅し滅亡する未来としてではなく、新たな価値を生み出すものとして再構築されることになる。

沖縄の社会を時間軸と文化軸から見ると、その99%をシマ社会が占めていることがわかる。位牌継承慣行は島津侵入(1609)後に導入されたもので、支配階級においても三百年余りの歴史に過ぎない。それが本格的に民衆化するのは、明治時代後期の1900年代あたりで、民衆化して百年余の歴史に過ぎない。

近代化も土地整理事業(1899〜1903)によって土地の私的所有権が確立してからのことであり、こちらも百年余の歴史に過ぎない。

シマ社会→位牌継承慣行→近代社会という歴史的な視点で沖縄の社会を見るのではなく、99%にあたるシマ社会を分母とし、沖縄の社会を考えていきたいと思う。

3. 消滅が予測されるシマ社会

現代社会はコモンズ(無償の共有財産)の商品化を徹底する新自由主義の段階に達している。海浜がリゾートによって商品化され、水道の民営化などあらゆる面で共有のシステムが民衆の手から奪い取られていく。

コモンズの商品化は、地方の切り捨てに転じる。コストパフォーマンスが重視され、学校の廃校、公共交通の便数の減少、医療機関の統廃合など、コストパフォーマンスの悪いとみなされたものは、整理統合されていく。

山原(やんばる)でいうと、以前に原野であった名護市の為又(びいまた)や宇茂佐(うもさ)に人口を集中させ、他は切り捨ての対象となっていく。国頭村における辺土名地区周辺の都市化、大宜味村結の浜における都市化も同じで、それ以外のシマ社会は限界集落と化し、近い将来の消滅が予測されている。

行政的には予測される未来への危機意識は弱いように見える。公共施設を統廃合しながら、橋を懸け、道路を開き、海を埋め立て、リゾート施設が海浜を独占するという状況が進み、シマ社会の現状は、周回遅れで都市化を目指している段階にあるといえる。

国頭村、大宜味村の人口ピラミッドでわかるのは、1950年代生まれの男性シニアが多いということ。この世代は沖縄におけるベビーブーマーで、土地屋敷を受け継ぐ長男を残し、二三男、女性たちが大量に離村したことがわかる。

男女の人口バランスが崩れたのでシニア独身男性が増え、その結果、第二のベビーブームの起こることはなかった。人口の再生産がなされないので、人口増加は望めない。

ベビーブーマーたちが高齢化すると、人口バランスの崩れた超高齢社会となり、ベビーブーマーたちが亡くなる時代には急激な人口減を迎えることになる。それと同時に、市街地への人口集中が進み、既存のシマ社会の多くは限界集落になり、集落消滅の危機を迎えることになる。

今帰仁村の2005年→2023年の人口構成の推移を見ると、少子高齢化社会の急激な進行がわかる。2023年には二十代の人口が急激に減少し、都市部への人口移動を起こしていることがわかる。

4. 問題点の整理

· 山原では人口の再生産がなされないので、人口減少の流れを止めることがむつかしい。

· 子育て世代が都市部へ人口移動しているので、多くのシマ社会は限界集落となり、消滅の危機を迎えている。

· この流れを変えるためには、子育て世代の山原移住を積極的に進める必要がある。

· かつての社会では、育児はコミュニティ全体で行うものだった。そのため安心して子どもを産み育てることができた。

· 家族がコミュニティから分離するにしたがって、家族にとって育児は荷重負担となる。歴史上、家族だけで育児する社会は存在しなかったからだ。人類は近代になってはじめて、家族だけで育児するようになる。

· 山原では共同店や公民館、聖域などのコミュニティ機能や地域を共同管理するコモンズ意識がまだ健在であり、コミュニティ全体で子育てをする文化がまだ根っこには残されている。

· コミュニティ機能を再構築し、コモンズ意識の共有が広がれば、山原は子育て世代には魅力的なエリアに変わるだろう。

· そのためにはコストパフォーマンスを超える、新たな価値を生み出す必要がある。

5. ツリー(樹木)からリゾーム(根茎)へ

新たな価値を生み出すためには、社会の捉え方を変えなければならない。それはポストモダン(脱近代)的な社会の捉え方だ。

1960年代の西欧で、近代的思想の主流であった資本主義とマルクス主義の限界が指摘され、この両者を乗り越える考え方が模索された。それがポストモダン思想とされるものだ。

ポストモダン思想が目指したものは、西欧中心主義からの脱却だ。西欧中心主義は近代市民革命の二百年から三百年の歴史をもつものに過ぎず、普遍性を持つものではないという主張だ。

文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは神話的思考が新たな美や価値を生み出すのだと主張し、芸術作品の多くは神話的思考に基づいているのだと指摘した。

哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析家のエリックス・ガタリは西欧の思考はツリー(樹木)型に基づいているのであり、それから解放されてリゾーム(根茎)型の思考を持たなければならないと主張した。このリゾーム型の社会はS N Sの発達によって実現された。

統制されるのではなく、個が情報の発信者となり、縦横無尽にネットワークを形成していくのである。それによって情報のシェアが可能となる。

たとえば米国の美術館では収蔵作品のシェアが進んでいる。シェアすることによってコアな美術ファンを増やしているのだ。日本のN H Kなどの放送局や博物館、美術館は情報のシェアには消極的だ。情報をシェアしないことにより、情報は一部権威者や専門家だけのものになってしまう。そこらあたりが、「失われた三十年」といわれる日本経済の立ち遅れを招いているのだといえるだろう。

レヴィ=ストロースの神話的思考=野生の思考、ドゥルーズ+ガタリのリゾーム(根茎)などのポストモダン思想は、資本主義の限界を超え、新たな社会を構想するものだった。そして神話的思考=野生の思考とリゾーム型の社会は、沖縄のシマ社会の持つ特質そのものだといって良い。つまりシマ社会は新たな価値を生み出す社会であり、資本主義社会を超えるモデルとなる社会であるということだ。


6. リゾームとしての共同店

共同店はリゾーム(根茎)型のネットワークで縦横無尽に繋がった方が良い。

なぜなら沖縄のシマ社会はツリー(樹木)型のネットワークで結ばれている社会ではなく、それ自体がミクロコスモスとして完結する独立性の強い社会だからだ。

リゾームはツリーの体系に組み込まれないために情報の伝達速度が速くなるとともに、多様多彩な情報の共有が可能となる。

そのため情報化(IT)社会への対応が可能であるだけではなく、リゾーム型のネットワークを形成することにより、ありうべき未来の社会を構築することが可能となる。

沖縄のシマ社会は、それ自体がリゾーム(根茎)だった。シマは固有の神をもち、聖域をもち、神話をもっていた。

自己完結したミクロコスモスを形成しながら、他のシマと縦横無尽に結びつき、独自の文化を形成した。

沖縄のシマ社会は、琉球王国によるツリー型の構造に組み込まれることなく、リゾームとして流動的で柔軟な構造をもっていた。

図は、近代を超えたポストモダンの社会としてのリゾームを描いたもの。沖縄のシマ社会は、そのまま近未来社会であるリゾームの構造に当てはまるものだった。

Nは〈多〉を意味する。〈多〉はより高次の〈一〉が加えられることにより、ツリー型の統一体になる。上の図は軍隊を意味する。〈命令する者〉を除くと、〈多〉は統一された軍隊であることを止める。

下の図はツリー型の秩序。頂点に位置する〈一〉を除くことにより、〈多〉は縦横無尽なネットワークを形成する。これは来るべきネット社会を表すものだ。ネット社会はツリー型であるよりもリゾーム型である方が、生産性を高めることになる。


7. 懐かしい未来のために

沖縄のシマ社会が閉ざされた社会のように見えるのは、近代化によるものだといえる。近代化とは私的所有権の確立であり、貨幣経済によるコモンズの商品化だ。

私的所有権の確立により家意識が確立され、家単位の仏壇や墓が出現する。近代以前までのシマ社会には仏壇や位牌は普及しておらず、家族単位の墓も少なかった。

私的所有権の確立によって家意識はコミュニティからの分離を始め、仏壇や位牌、家族単位の墓が、コミュニティ(シマ社会)の宗教に代わるものとなった。

たとえば久高島では土地の私的所有権は否定された。土地は基本的にシマ・コミュニティの管理するものとして残された。久高島では島外者であっても、三年以上住んで定住者と認められた時は、字から宅地と耕作地が提供された。審査は慎重に行われるものであるにしても、個人間の土地の貸借ではなく、シマ・コミュニティの承認によって土地が貸借されるのである。

シマには神社やお寺がなかったので、シマ・コミュニティの宗教祭祀がそれに代わった。そして家族意識がシマ・コミュニティからの分離を果たしたとき、仏壇や位牌、屋敷などが寺社に代わる宗教的な意味合いを持つものとなった。そのため転出しても賃貸に出すことは躊躇われ、住民不在の空き家が多数出現することになった。

このような屋敷宅地の宗教的な意味合いが、シマ社会の消滅を目前にしても、新たな転入者の増加を阻むものとなった。

8. シマ社会を開く

ベーシック(基層的)な地域文化を継承しつつ時代に合わせて変化させるためには、半ば開かれ半ば閉ざされるという形態が必要になる。レヴィ=ストロースは「創造活動が盛んだった時代」は半ば開かれ半ば閉ざされた社会の時代だったと指摘する。

創造活動が盛んだった時代は、コミュニケーションが、離れた相手に刺戟を与える程度に発達した時代であり、それがあまりにも頻繁で迅速になり、個人にとっても集団にとってもなくてはならない障害が減って、交流が容易になり、相互の多様性を相殺してしまうことがなかった時代である。(レヴィ=ストロース『はるかなる視線Ⅰ』)

たとえば与勝半島のパーランクー・エイサーを想定すると、そのイメージがわかる。与勝半島にパーランクー・エイサーが確立した時代は、まだ陸上交通が整備されておらず山原船による海上交通が主流の社会だった。沖縄島東回りの海上交通をほぼ独占していた与勝半島は、近代の那覇の街で生成していた沖縄芝居や雑踊などの新しい文化に接することが可能な土地であるとともに、娘宿でのモーアシビを残すなどのシマ社会の古形が残る地域だった。

半ば開かれ半ば閉ざされるというこの地理的条件が、高度な演劇性を持つパーランクー・エイサーを生成させたのだといえる。

シマ社会の持つ閉鎖性は、創造的な文化(=新たな価値)を生み出す母胎であるといえる。しかし閉鎖性だけではそれは母胎であるだけにとどまる。新たな価値を生み出すためには、シマ社会を半ば開かれたものにする必要がある。

シマ社会の閉鎖性には、神話的世界の閉鎖性とモダニズム(近代主義)による閉鎖性との二つがある。

シマ社会の閉鎖性には、神話的価値観以上にモダニズムが大きく作用している。モダニズムによって私有財産が確立され、それと同時に遺伝子的血縁主義が民衆化していった。私有財産の確立と遺伝子的血縁主義が、シマ社会に閉鎖性をもたらした大きな要因だといえるだろう。

レヴィ=ストロースによると、神話的価値観を持つ社会ではよそ者は一方的に排除される存在ではなかった。「文化がそれぞれ多様だと自認」することができるのならば、「お互いに対話の相手として認め合うこともできる」のだった。

よそ者が家庭を訪問すると、生まれたばかりの子供の名付け親に選ばれる。また縁組も、二つの集団の距離が大きければ大きいほど価値がある。(…)文化がそれぞれ多様だと自認すれば、他の文化を意図的に無視することもできるし、お互いに対話の相手として認め合うこともできる。(レヴィ=ストロース、同前)

シマ社会を開かれたものにするためには、コミュニティによる自治意識が再構築される必要がある。その必要性を満たすのが伝統的(=神話的・野生的)な祭りだ。神話的・野生的な祭りにはコミュニティを一体化させる機能がある。その一体化の中でコミュニティは他に開かれていく。

祭りは祖先崇拝から来訪神祭祀に重点を変えていく必要がある。それは俄(にわか)には難しいことのように思えるかもしれないが、分母としてのシマ社会から見ると、祖先崇拝は百年余のことであり、99%を占める来訪神祭祀に戻るだけのことであるから、さほど困難なこととはいえない。

9. コモンズの再生

コモンズは無償で利用できる共有財産という意味にとどまるものではない。リゾート開発などによって土地の資産価値が高騰するまでは、私有地であろうとコモンズとしての性格を失うものではなかった。

フランス思想研究の内田樹によると、東京オリンピック(1964年)の前までは家と家との境は低い垣根だけでブロック塀は少なかった。土地も家もコモンズであり、子どもたちはどの家にも自由に出入りした。オリンピックで土地の値段が高騰することにより、家はブロック塀で囲い込まれるようになった。

50年代の東京の庶民は、関川夏央さんの言うところの「共和的な貧しさ」のうちに安らいでいました。みんな貧乏だったけれども、お互いに助け合って暮らしていた。子どもたちはどの家にも出入り自由だったし、行けばおやつが出たし、テレビも見せてくれた。それが五輪の前後から、それまで低い垣根だけで隔てられていた隣家がブロック塀を立てて自宅を「囲い込む」ようになった。空き地の鉄条網と同じです。「私有地につき立ち入り禁止」になった。
 それまでは土地も家も「コモン」だったんです。誰でも入ることができた。それが立ち入り禁止になったのは、「共和的な貧しさ」の時代が終わって、貧富の差が出てきたからです。   (内田樹『コモンの再生』)

沖縄でも事情は同じだった。沖縄では東京オリンピックではなく日本への復帰(1972年)が画期となる。復帰の前後で軍用地料は6倍から8倍にまで跳ね上がった。リゾート開発の土地ブームが訪れ、復帰前には坪当たり36円の土地が復帰後には1万円にまで高騰した。

『琉球新報[マイクロフィルム複製本] 1972年12月』([沖縄県立図書館]編・刊)
p393 「景勝地、企業が押さえる 目立つ投機買い」の記事で、「地価は復帰前一年の間に三.三平方メートル(一坪)当たり四十セントから一万二千円の開きがあるところや国道沿いなどは五万円に上がり、復帰後かなり上昇している。」の記述がある。(1972.12.28 1面)
p410 「72県内10大ニュース ⑦土地買占め、地価高騰」の記事で、「…昭和五十年に開催される沖縄国際海洋博が本部半島で開かれることもからんで、思惑による土地買占めが盛んになり、復帰前、三.三平方メートル十セント(三十六円)の土地が復帰後には一万円にも高騰、…」の記述がある。(1972.12.29 4面)(沖縄県立図書館レファレンスより)

この土地ブームによって鬱蒼とした福木並木は、短期間でブロック塀に変わっていった。福木の巨木に包まれた集落は、子どもたちにとっては、どの家も出入り自由なコモンズだった。土地の資産価値の高騰によって、子どもたちが自由に安全に遊べるコモンズが大幅に減少したのだ。

土地に私的所有権が確立していたにせよ、集落全体が子どもたちにとってのコモンズだったのだ。そしてコモンズであることによって、福木の巨木は、集落の景観に風格を与えた。私的所有であるだけなら、それはその家の富を誇るものにすぎないのだが、コモンズの性格を与えることによって、個々の家の富にとどまることなく、神話的な存在(=風格)に変化するのだ。

東京都武蔵野市ではブロック塀を撤去し生垣にした家屋には、ブロック塀撤去に30万円まで、生垣造成には60万円までの補助をしている。ブロック塀を取り除くだけでも視覚的にコモンズの領域が増す。それは地域全体の意識をコモンズ化し、整然とした風格のある景観を築くだろう。

地域コミュニティの一体化が進み、土地のコモンズ化が進むならば、それは子育てには最良の条件を備えることになり、子育て世代を呼び込むことも可能となるだろう。


【参考文献】

クロード・レヴィ=ストロース(大橋保夫訳)『野生の思考』(1962=1976年、みすず書房)
クロード・レヴィ=ストロース(三保元訳)『はるかなる視線Ⅰ』(1983=1986年、みすず書房)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ(宇野邦一他訳)『千のプラトー(上・中・下)』(1980=2010年、河出文庫)
内田樹『コモンの再生』(2020年、文藝春秋)


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