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生/性の倫理としての『天安門、恋人たち』北村匡平(映画研究者/評論家)

5/31(金)公開。映画『天安門、恋人たち』について、映画研究者で評論家の 北村匡平様より寄稿をいただきました。

生/性の倫理としての『天安門、恋人たち』

 雨が滴る音——。建造物を下から捉えたカメラは配達員の顔に接近すると、そのまま建物内の薄暗い通路を歩いていく男を追跡する。『天安門、恋人たち』の冒頭の舞台は中国の辺境、北朝鮮との国境付近にある図們(ともん)。カメラは裏ぶれた路地で働くヒロインと、彼女に北京の大学合格の手紙を届けにきた恋人を映し出す。すると何の前触れもなく、唐突に土砂降りの雨がスクリーンに降り注ぐ。
 
 小津安二郎の映画が、珍しく豪雨となる『浮草』などの例外を除き、絶えず乾いた空気と晴れわたる青空を画面に求めたとすれば、ロウ・イエは逆に雲で覆われた陰鬱な空模様や容赦ない豪雨をスクリーンに呼び込む。ロウ・イエ映画にあって、空は鬱屈した不安定な登場人物の心情を注釈する重要な存在ともいえる。
 
 映画の主人公ユー・ホン(ハオ・レイ)は、序盤にだけ現れる父と、淡白な会話を交わす。恋人とふたりで外出すると見知らぬ集団に喧嘩をふっかけられ、揉み合う姿がピンボケの映像でつながれる。傷つけられた男と女は、やがて夜の草原で裸体になって激しく睦みあう。女は損なわれてひどく絶望しているようにも、求められて心から安堵しているようにも見える。こうした両義性(アンビギュイティ)がロウ・イエ映画ではいつも顔を見せる。
 
 土砂降りの雨、カメラの揺動、アウトフォーカス、歩行する人物を後ろから追尾する移動撮影。過激な性愛描写、異様なクロースアップ、薄暗い空間設計、廃墟のような舞台背景。このアヴァンタイトルだけでも、彼の作品に通底する作家性が凝縮されているのが見て取れるだろう。
 
 中国映画の第六世代にあたるロウ・イエは、モダンな感覚と前衛表現を求め、通常の時空のコンティニュイティ編集に抗う。ゴダールをさりげなく継承するような時間の省略や飛躍があり、相米慎二のごとく空間をガタガタと揺れる手持ちカメラで捉え、神代辰巳のように肉体を求めあうふたりの濃密な性愛表現を活写する。けれども、どの映画もロウ・イエとしかいいようがない独自の主題と技法がスクリーンに刻印される。

 妻子ある家庭を二つもち、不倫する男の秘密が暴露される『二重生活』や、ヒロインと異国で結ばれる男が実は結婚していたことが判明する『パリ、ただよう花』、妻がありながら同性の愛人がいることが暴かれる『スプリング・フィーバー』、さらには人気女優であると同時に諜報員という裏の顔をもつ女性を描く『サタデー・フィクション』まで、ロウ・イエはつねに人間の表/裏の顔を描き続けた。
 
 『天安門、恋人たち』では、ヒロインが大学で恋に落ちた恋人のチョウ・ウェイを、親友のリー・ティから奪われ、ふたりの関係が暴かれる。時が経ちベルリンで、明るく健全に見えたリー・ティが突然ビルの屋上から飛び降り自殺をはかるシーンは、あまりにショッキングで言葉を失う。
 
 ユー・ホンは、図們(ともん)、北京、深圳(しんせん)、武漢(ぶかん)といくつもの街を漂流しては、男たちとの行きずりの関係に溺れてしまう。本作だけではない。ロウ・イエの描く人物は、定住せず、街を彷徨い、移動をやめない。このこととも関連していようが、彼の作品における血縁関係の希薄さは顕著で、恋人とも結婚相手とも家族的なつながりは感じられない。いわば、家庭の強固な絆や温もりというもののいっさいが排除されているのだ。ただ求め合う肉体のつながりだけが、確かなもののように刹那的に描き出されている。
 
 寄る辺のないユー・ホンらロウ・イエ映画の主人公たちは、不確かで曖昧な未来ではなく、身体を通じて確かに感じ取れる「いま、ここ」だけを志向する。身体が強く結ばれれば結ばれるほど孤独感が深まってゆくという逆説。体を求めあうことによる惑乱。苦悩と享楽の混淆(こんこう)。愛することで彼女たちはますます重心が不安定になってゆく。

 よく知られているように、『天安門、恋人たち』は国内で上映禁止処分となり、ロウ・イエは政府当局から5年間にわたって映画の製作を禁止する処分を下された。政治状況からして天安門事件を扱うことはタブーであり、さらに中国映画には見られなかった過激な性描写もあるから、国の体制からすれば、その処分の理由はわからなくもない。だが、ロウ・イエの映画がいつも権力者を逆撫でするのは、そういった表面的な題材や描写以上に、国家が理想とする道徳規範がいささかも感じられないことにあるのではないか。
 
 中国史に必然的に勃興した天安門事件。その圧倒的エネルギーの時代を生きた若者たちの欲望と無力感、享楽と喪失、怒りと孤独——。ロウ・イエの映画は本作に限らず、いかなる道徳規範も持ち合わせていない。あるのは物語を生きる個人にとっての「生/性の倫理」である。
 
 倫理一般など存在しないと述べる哲学者のアラン・パディウは、それを抽象的な問題に結びつけるのではなく、さまざまな状況へ差し戻さなければならないという。要するに「道徳」が万人にとっての普遍的な正しさだとすれば、「倫理」は個別に判断すべきことで、答えが定まっているわけではない。だからそれぞれがその都度、具体的な状況のなかで不確かなまま個別の「正しさ」を貫き、突き進むほかない。
 
 このような意味で、ロウ・イエ映画の人物たちは個別の「倫理」を生き、「道徳」を欠落させているといえよう。だから彼の映画に万人が共感できるカタルシスはいっさいない。ただ、物語を生きる人物それぞれにとっての「正しさ」がある。親友の裏切りも自死も、ヒロインの妻帯者との性愛も、子供の堕胎も、彼女たちの倫理における「正しさ」にほかならない。
 
 映画では天安門事件に加えて、ベルリンの壁、ソ連の崩壊といった史実の映像が組み込まれ、主人公の奔放なセクシュアリティが歴史に重ねられるように留め置かれる。決して後戻りなどできないといわんばかりに、取り返しのつかない時間の不可逆性を画面に刻み込む。『天安門、恋人たち』は、最後にずっと愛していた男と再会するところを描く。だが、彼女は大学で彼と過ごしたもとの時間に戻ることはない。それが彼女にとって、その時、その瞬間の生/性の倫理だからである。
 

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