見出し画像

テラスハウス花さんの死に思うこと

花さんを愛した全ての人へ

まずは花さんのご冥福を心からお祈りするとともに、今は花さんと個人的に面識のあった花さんを愛する全ての方々の心のケアを最優先してほしいと思います。アメリカ精神医学会は、愛する人を自死で失うトラウマの深刻さは強制収容所に入れられるトラウマと同等だと定義しています(American Psychiatric Association, Diagnostic and statistical manual of mental disorders (3rd ed., revised) (1987).)。また他人の私生活を覗き見できるというテラスハウスの性質上、花さんを個人的には知らない視聴者の中にも、花さんに深い情を抱き今強いトラウマを感じている人がいると思います。自死遺族が感じる辛さは、愛する人を救ってあげたかったのに救ってあげられなかったと言う無力感、罪悪感に加えて、愛するその人を奪った加害者そのものが愛する人本人であると言う相反関係、そこから生まれる怒りであったり、愛する人が死を選択したことによってこれまでの自分との思い出が否定されたように感じる虚しさであったり、愛する人が死後自ら死を選択した異常者として扱われる悲しみ(そうしたstigmaやjudgmentを受けることへの悲しみ)であったりと、本当に複雑です。昨日までそこにあった笑顔がもうそこにはないという事実は、おそらくある時突然受け入れられるものではなく、ボディブローのようにじわじわときいて来て、ある瞬間には大丈夫だと思っても、次の瞬間にはやはりその人の死を受け入れられなくて辛くなる、という繰り返しが、残酷なことに半永久的に続くことになるだろうと思います。少しでも辛いと思っている人は、家族友人ホットラインカウンセラー等頼れるリソースは何でもいいので頼って、花さんのことを思ってあげてほしいと思います。

ネット上の誹謗中傷という「言葉」が持つ重み

花さんのこれまでの言動を見ると、おそらく死んでしまいたいと思ったことはこれが初めてではなく、そこに至るまでのunderlying issuesが(もしかしたら長い間)原因としてあって、それがネットの誹謗中傷をtriggerとして爆発して死という結果に至ってしまったのであろうと考えられます。ただそれは、誹謗中傷は単なるtriggerだからその深刻さは低い、という意味では全くなくて、むしろ個人的な理由+誹謗中傷の両方が、自死の必要条件(ある結果を生み出すために欠かせない条件、but for condition)であった、つまり誹謗中傷がなければ、少なくとも22年間一生懸命生きてきた花さんは、こんなに早く天に召される必要はなかった、という意味です。なので、誹謗中傷を行った人は、適切に非難され、場合によっては処罰されるべきです。アメリカでは近年、自死願望のある交際相手の男性に自死を実現するよう強く促したとして、交際相手の女性に過失致死罪が認められたケースがあります。このケースでも今回のケースでも、表現の自由(First Amendment)との兼ね合いが引き合いに出されますが、表現の自由にも制約があり(表現の自由におそらく世界でもトップクラスの重きが置かれているアメリカでもこのような判例が出たということ自体が象徴的です)、「言葉」が単体として物理的な殺害、傷害、幇助行為と同等の行為とみなされうるという事実を、SNS時代を生きる私たちはこれからも胸に留めておかなければなりません。

「人格」ではなく「状態」としてメンタルヘルスを正しく理解する

さらに花さんの死に思いを馳せると、現代社会におけるメンタルヘルスの扱い方という大きな問題に突き当たります。人にはそれぞれ個性があり、他人からの評価や批判に敏感な人もいれば、そうでない人もいます。また、どんなに普段は他人からの評価を恐れない人でも、様々な事情で心のバランスを崩してしまい、外界からのストレスに敏感になってしまう時期もあります。病院に行って鬱などの病名がつく場合もあれば、訳が分からず一人で苦しんでいる人もいると思います。そのような人たちを、「メンヘラ」「情緒不安定」「心が弱い」といったnegative connotationを含む言葉で卑下する風潮を、私たちはもう止めるべきです。そもそもの個人的な傾向や性格はあったとしても、あらゆる精神的な症状はその人が一生変えられない「人格」ではなく、その人のその時点での「状態」にすぎない事を理解し、その「状態」を馬鹿にするのではなく、むしろその人が苦しい「状態」を脱する手助けをすることだけに注力すべきです。

リアリティーショーは完全悪なのか

ここで少し話は変わりますが、俯瞰的な視点からリアリティーショーという媒体そのものについて考えてみたいと思います。リアリティーショーは、予定調和的なscripted showへのアンチテーゼとして、欧米でも高い人気を誇ります。世界的にも様々な形態のリアリティーショーが制作されていますが、(私個人としてはテラスハウスは初期の1シーズンしか見たことがありませんが)テラスハウスの狙いは、うら若き男女6人の共同生活を撮影し、そこで起きる仕事の悩み、恋愛関係、人間関係の悩みなどに視聴者が自分の思いや人生を投影して楽しむ、というところにあるのだと考えます(そして海外では、日本人的な問題解決方法などが垣間見えて面白いという点でも、高い評価を得ているようです)。私が見た限りでは、少なくとも欧米のリアリティーショーとの比較では、参加者への負担も少なく(無人島や一軒家に閉じ込められたり、携帯を取り上げられたりせず、シェアハウスに住む以外は普段通りの生活を送れる)、編集における悪意もそこまで感じることはありませんでした(一番深刻な喧嘩シーンは映らず事後的に言葉で説明するのみに留めたり、どんな参加者に対してもその人と良い面と悪い面が映るように配慮されている)。他方で問題を孕んでいるかもしれないと思うのがスタジオの意見であって、特に初期の段階では卑屈な意見の求められる山里さんの立ち位置は難しかった(ネットのアンチを形成し先導していると思われかねない)とは思いますが、必ず山里さんがやや極端な意見を言った場合(本心か、演出かは別として)でも訂正する人がいて、スタジオ全体でバランスが取れるように配慮がなされていたと思います。

このような問題点を鑑みて、テラスハウスはリアリティーショーだというだけで禁止されるべきなのでしょうか?そのような線引きをした場合、まずリアリティーショーをどう定義するか(「scriptがない」ということで定義するのなら、テラスハウスにも多少のscriptが実はあって該当しないことになるかもしれませんし、「開放空間で一般人を映している」と定義すれば、一般人参加型の番組は全て禁止ということになり過剰な表現の制約になり得ます)、という新たな問題に直面して、結局問題のすり替えに過ぎないということに気づかされます。そもそもリアリティーショー自体が悪であって、その制作者やそれに興じる視聴者こそ罪悪感を感じるべきだ、という意見もあるかもしれません。ただその意見を突き詰めれば、セレブの私生活に関する全てのゴシップを禁止すべきだ、という極論に到達し兼ねません。勿論セレブの私生活に関する現在の報道姿勢を考慮すると、我々は過剰なゴシップを制約する方向に動くべきだろうと考えます。ただ、ゴシップ全てを禁止することは、果たして著名人にとっても視聴者にとっても現実的、あるいは理想的でしょうか?例えばある映画がリリースされて、主演俳優がインタビューを受ける時、インタビュアーはその俳優の生い立ちや家族構成が演技にどのような影響を与えたか、どの学校を出て、どの町の出身で、といったことは全く聞けなくなり、俳優自身も語ることが出来なくなります。私たちはそのような言論統制社会を生きようとしているのでしょうか?つまり、リアリティーショーという形式をただそれだけの理由で(per se)禁止することは、表現の自由に過剰な制約を課す恐れがあり、根本的には何の問題の解決にもならないと考えます。

表現の自由と許されない誹謗中傷の境界線

それでは花さんの死を通して私たちは何を学ぶべきか。花さんの死をネットでの誹謗中傷論に矮小化するな、という議論もありますが、やはりこの一件に関しての本質的な問題はここにあると思います。花さんの訃報に接して、著名人の方々の中には、「代わりに自分を誹謗中傷の的としてくれていいから」と自らを犠牲にしてでもアンチを抑え込もうとしている方々もいるようです。しかし、私たちが学ぶべきは、「誹謗中傷は相手を選べばOK」ということではなく、「誹謗中傷は誰に対しても行ってはいけない」ということです。インターネットの匿名性の影に隠れて、もしも雑誌などの伝統的な媒体で発信されていれば確実に処罰されるような内容を発信した人間が、何の処罰も受けていないという現状を変えなくてはいけません。そのために、現状では残念ながら、著名人の方々などの被害者が積極的に警察への通報や発信者開示請求を経た告訴(川崎希さんが行ったことで話題になりました、川崎さんの2020年3月3日のブログ記事参照)などを行っていかなければなりませんが、これではあまりにも表現者への負担が重過ぎます。著名人に限らずネット上の誹謗中傷の被害者がpro se(弁護士の助けを借りずに自力で)で告発をできる制度を整えるとともに、インターネットの利用者全員が誹謗中傷を断固として拒絶するというメディアリテラシーを早急に醸成していかなければなりません。

SNS時代の表現者と視聴者のあり方

知的財産権法の世界では、2010年代はSNSの時代、2020年代はAIの時代、と言われることがありますが、私たちは2020年に突入し、誰もが予期していなかった新型コロナウイルスによる公衆衛生危機と世界的恐慌に直面した今もなお、SNS時代の負の遺産に苦しめられています。SNSは表現者と視聴者の距離を格段に縮めましたが、同時に、媒体全体としての演出から切り取られて、表現者だけが矢面に立たされて批判の的になる、という残酷な状況を生み出しています。あらゆる表現者が、安心して与えられた表現の自由を謳歌することができる時代、そして、あらゆる視聴者が、表現者の表現を楽しみ、それについて(誹謗中傷のラインを超えずに)自由に意見を交換できる時代が一刻も早く来ることを、天国の花さんも願っているはずです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?