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人間の表現について考えてみた~音楽~

 人間は、様々な表現が可能な生き物だ。性格が顔に出る、それをひとつとっても、人間は表現が豊かな生き物だ。では、こういった表現というのはどのようにし育まれ、人間形成に影響しているのだろうか。その中で、筆者としては「音楽」という存在で、人間の表現について考えてみたい。

<ポイント>
 1.学校教育で育まれる人間の表現~個 対 協調~
 2.テクノロジーの進化と表現方法~音楽~
 3.人間の表現と人間の価値~評価経済~

 まず、人間の表現というものが育まれる過程で重要な役割を担っているのが、学校教育だ。よく、日本と海外(ここでは、欧米諸国を念頭に置いている)では学校教育の意図や方法が違うなどと言われるが、確かに、大人になってそのことに気づく場面がある。そのときに、人間の表現が関係してくると私は思う。
 よく言われることかもしれないが、日本では人間の個の表現というよりも集合体の中での協調性がより重要視される。その結果、個人としての自立や責任感などが乏しいと感じる。一方で、海外では個の表現をより重要視することから、個人としての自立や責任感などが強いと感じる。(日本と海外の教育の違いのひとつに、「モンテッソーリ教育」というものがあるみたいだが、そこに関しては別の機会に書いてみたいと思う。)
 そして、このような違いが如実に表れてくるのが、学校教育なのだ。所謂、"つめこみ式"と呼ばれたり、はたまた"ゆとり世代"と呼ばれたり、日本の学校教育は、かなり右往左往している印象を受ける。私が思うに、個を重要視したほうが良いと思いながらも、結局は協調性を重要視される、その背景には日本社会に出たときに協調性が求められるからなのではないかと。その結果、日本の学校教育では個の表現というものが薄まってしまっているように感じる。

日本の学校教育:個の表現<協調性
海外の学校教育:個の表現>協調性

 次に、学校教育における「表現」について、その中でも今回は「音楽」を例に考えてみたい。
 音楽で表現する、まず思いつくのが、音楽を作るであろう。例えば、自分の気持ちをぶつけたい、はたまた、世の中の何かについて言いたい、などを音楽に乗せて表現をする。その中でも、歌というものが、多くの人ができる、最も手軽な表現だと思われる。楽器が演奏できなくても、自分の声で音楽を表現することができる。また、一人で表現することも可能であるし、複数人で合唱という形を変えて表現することも可能だ。
 ここで筆者として考えたいことが、最近のテクノロジーの進化によって、楽器演奏ができなくても簡単に演奏ができたりしたら、音楽の表現の幅が広がるのではないかということだ。筆者が学校教育にいたのは、約20年前なので、現在の状況を詳しくは分からないが、テクノロジーの進化のスピードに比べて、(特に日本の)学校教育現場の進化のスピードは遅いと感じる。もちろん、変わらない方が良い、守るべきものがある、など様々な理由があるのは分かる。しかし、テクノロジーの進化によって、これまでできなかったことができるようになってきたのは事実だ。
 音楽を例にしてみると、今から約10年前に「ボーカロイド」が登場し、作曲というハードルをテクノロジーにより大きく下げた。そして今では、そのボーカロイドが教育版として、学校教育に参入している。(現状だと、参入による結果というものが目に見えてはないが、今後の活用に期待は高いと私は感じている。)
 もし、うまくバランスをとって、お互いが歩み寄れる構造、例えば産学(官?)の連携が円滑に行えるようになれば、新たな世界が広がるのではないだろうか。

テクノロジーの進化×学校教育=新たな教育の可能性