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「私の経歴書 13」強要もせずに、でき上った多様性あるチームの強さを感じるとき

シンガポールに異動してから、マレーシアの工場にひと月に一度定期的に訪問するようになった。シンガポールの購買部門の日本人Managerがはじめたことが、それに同行するようになった。はじめはシンガポールに駐在する日本人2名で工場を訪問、工場側の日本人との情報交換を行っていたが、回を重ねるごとに、現地スタッフも参加するようになり、重要な定例ミーティングになった。

マレーシアの駐在員事務所も人数が増えていた。赴任直後にあったリストラでマレーシアにあった自社工場は閉鎖になり、そこにいたスタッフが異動してきていたこともあった。スタッフの半数以上が女性、人種も様々、インド系、マレー系、中国系に日本人という構成だ。様々な言語が飛び交う。マレーシアの公用語はマレー語だが、社内では英語が公用語。
会議中でも、時として中国語や日本語、色んな言語での会話が始まることもある。そうなると、定例ミーティングを仕切るインド人の女性マネージャーが、「English please」と言い、場が引き締まる。日本人同士でも英語での会話になる。
シンガポールの仕事もマレーシアの彼らの手に引き継がれることによって、商品になっていく。彼らはパートナであり、仲間だ。彼らが持つそれぞれの役割を理解してコミュニケーションして仕事が成り立つ。

マレーシアに赴任した直後はよくぶつかったスタッフたちとミーティングをすることがまた楽しい。時として熱くなり過ぎることもあるけれど、情熱の表れだろう。話がまとまれば、何事もなかったように普通に会話する。
互いの問題をカバーしながら予定通りの出荷を目標に協力し合う。それが顧客の信頼につながり、利益の源泉になる。

現地スタッフとのミーティングの他にも、日本人幹部とのミーティングも行なう。工場側からの提案が多い。そうした意見を取り入れ、スタッフを巻き込みながら解決していくことも仕事になった。幹部提案であっても、スタッフが納得できるリーズナブルな目的や理由がなければ長続きはしない。最大限の配慮が必要だ。

一方的に工場に訪問することで始まったミーティングであったが、いつしかホーム&アウェイ方式での開催になった。シンガポールにも取引先があり、工場メンバーにも取引先を訪問させ、取引先の現場を知ることや担当者と直接交流させることも目的にした。
赴任直後を思えば、だいぶ活気ある職場と感じるようになった。少しは活性化にも貢献できているのかもしれない。

懸案であった日本から移管されるモデルの立上げは順調だったといっていいのかもしれない。海外生産をはじめた当時を思えば、違いがはっきりしている。何から何までひとりで背負った責任が、スタッフたちの行動があるから低減されるし、彼らの行動があって結果につながっていく。色々問題はあったのだけれど、ひとつのチームになり、その問題に取り組めば、問題を長引かせることなく解決されていく。一人ひとりが応分の責任を持ち、同じ目的に向かって行動した結果ということであろう。

問題をひとつひとつ潰していけば、平穏な日々がやって来るはずであるが、実績ができると、不思議なもので、また新たな仕事が舞い込むということがあるようだ。
となりに座っていたDiv.Managerから思いがけない提案があった。自分が属する事業部の仕事ではなく、他事業部の仕事をやらないかという。Div. Managerもシンガポールでの取扱高を大きくしたいという気持ちがあるのだろう。
事業部出身で海外駐在しているので、活動費の源泉は事業負担になっている。スタッフの人件費の一部でも他事業部へ付け替えることができれば、その分活動費の低減につながる。両者の思惑が一致するところもある。
受けることにした。もちろん事業部側の了解も得た。あくまでも事業部の仕事を優先することを確約した。
この仕事はこの先色々苦労することにもなるが、苦労した分得られることもある。そういうことを経験していくことになる。

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