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「私の経歴書 2」奪われた海外での仕事、日本でやりがいを取り戻したら、また海外に行けと言われた。

(前回まで)
罵倒された上司からの勧めで、IE(=Industrial  Engineering)を学び、仕事に目覚め、意気揚々と海外プロジェクトに立候補した。しかし、海外の現場はそんなに甘くなかった。少しばかり屈辱感を味わった。シンガポールが新たな仕事場になり、新たなことに挑戦し始めた。ハードな仕事だったが、結果がついてくるようになると充実感を味わえる。しかし、そうした日々はそう長く続かなかった。シンガポールでの仕事場を奪われ、日本が仕事場になった。

自分のコアに気づき始めた日本での仕事。
仲間、やりがい、だけど、海外赴任の辞令が…

シンガポールで、ともに働く仲間を増やせば、大きな仕事もできることを知った。途方に暮れそうなことでも、仲間がいてくれたことで、成し遂げることができた。もっともっと出来そうな気がした。
シンガポールの駐在員が先輩に決まったとき、足をすくわれる気分だった。成果を横取りされたような気になった。長く続いた2拠点生活が終わった。

日本に戻って、仲間7人と仕事することになった。日本での役割はチームリーダーだった。少しばかり戸惑った。パートナが社外から社内に変わった。今までとは違う責任みたいなものを感じた。
新たな仲間は異なる部署から集まった未経験者ばかりだった。当時続いていた国内生産と海外生産をサポートする業務体制を作ることになった。

しばらくするとリストラが始まった。成長しているパソコン市場とはいえ、価格下落圧力が強く、構造改革は避けられなかった。部内の再編もあって仲間が減った。事業部長が涙ながらに語った「断腸の思い」との言葉が心に刺さった。それまでに何度かリストラがあったが、このときはじめて職場の仲間を失うことを経験した。複雑な思いだった。

入社したときの職場の先輩が資材購買にいた。仕事柄、また一緒に仕事にするようになった。頼んでもいないのに、資材購買の仕事のうんちくを聞かされた。購入価格の決定プロセスや素材価格のこと、価格決定プロセスにおけるエンジニアに求められることなどを説かれた。後になって思えば、すごく貴重なことを教えてくれていたと思う。ただ感謝。

先輩の影響をうけて、素材開発や最新加工技術を取引先と協力しながら進め、カスタム部品の供給体制をつくる開発購買的な仕事の色彩を濃くしていった。コアが固まっていくということだったのかもしれない。
それは、エンジニアとしてひとつの技術を深堀して専門家になることではなかった。かつて学んだIEを応用して、部品の生産・供給体制を作る、そのときは意識はしていなかったがサプライチェーンを作っていくことだったのかもしれない。

「IEは、人間、材料、および設備が一体となって機能を発揮するマネジメント・システムの設計、改良、設置をすることである。

中堅のエンジニアのころ、徹夜である解析を行っていたとき、ふと、

「何でこんなことをやっているんだろう?」

との思いが頭をよぎった。仕事にも向き不向きがあるのだろう。
好きな仕事であれば、多少の苦労も楽しく感じるということなのかもしれない。

業務領域が徐々にを広がり始め、熱心に取り組めば、成果もあがるもの。成果が上がれば、モチベーションもアップする。最初に感じた不安は消え、日本での仕事にもやりがいを感じるようになった。海外にもたまに出張はしていたけれど、日本の仕事に没頭していた。

そんなことが3年くらい続いた後に、海外の駐在員が帰任してくることになった。後任駐在者をおかずともうまくオペレーションできると話だった。
さして気にとめることなく、時は流れる。
それから1年も経たないうちに、海外駐在の責任者から、駐在者が帰任後、全く機能しなくなった、問題続発で生産ラインが寸断されているとの一報が入った。現地スタッフだけでは解決できないという。
問題解決できる新たな駐在員の派遣要請がきた。

指名された。

急遽、マレーシアに赴任することになった。バタバタだった。海外赴任研修やら、引越しの手続き、車の処分。内示を受けて3か月もしないうちに、ペナンに着任。とりあえずのホテル住まい。問題解決を図りながら、現地の生活の準備。シンガポールとの行き来。不安とイライラがつのる。
問題が発生している現場に派遣されたのだから、赴任直後から現地スタッフとぶつかった。「打ち出の小槌」などもっていない。繰り出せる魔法などない。

また、新しい仲間との仕事が始まった。もう、昔の仲間はいない。また、一からの出直しになった。

楽しい時間はそうは長く続かない。また、試練の予感がする。
(つづく)



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