ほどほど

 二十代の終はりまで、エアコンのない部屋で暮らしてゐた。この前エアコンが故障して、あらためてそのことを思ひ出した。実家にもなかつたし一人暮らしを始めてからも暫くはなかつた。暑がりで汗かきの私だが、はじめからなければないで何とかなつたのである。
 京都の大学にきて一人暮らしを始めたころ、夏になると風の通る日陰をもとめて方方へ出かけた。例へば南禅寺の三門は東山の樹樹の間を吹く風の道になつてゐるので、一隅を借りて本を読んだりすることがあつた。
 哲学の径から東山へ少しあがつたところに小さな滝があつて、その滝のそばにあつた茶屋にも時折出かけた。平日の昼過ぎは他に客のないことが多く、川床のやうな畳敷きの席に半ば横になつて素麺と一本の麦酒(ビール)で一、二時間ねばつた。素麺には木の芽をのせた卵豆腐がついてきたのを憶えてゐる。滝が天然の冷房になつてゐて、さながら別天地だつた。
 その茶屋は夏の間だけ、近所の人がやつてゐるやうだった。すき焼きなどもやつてゐて、夜は家族連れや団体の客もゐたやうだが、哲学の径から近いにも関わらず観光の人はあまり見かけることがなかつた。
 茶屋はずいぶん前に閉店してしまつたが、もし今やつてゐたら観光客で一杯になつてゐたのではないか。昨今はブログやSNSの影響で、以前なら地元の人しか来なかつたやうな隠れ家的な店にも観光の人がやつて来るやうになつた。私には三十年来通つてゐる愛着のある居酒屋が二軒あるが、どちらも最近は観光の人が増えて週末などは満席で入れないことが多くなつた。地元の人に愛される良心的な店がはやるのは喜ばしいことだが、正直なところ複雑な思いがないわけではない。
 ほどほどに良い店、といふのが昔はあつた。格別においしいわけでもなくお洒落なわけでもないが、ほつとできる。満席になるのは稀で客が並ぶやうなことは金輪際ない。そんなほどほどに良い店がブログやSNS、グルメ情報サイトなどの影響で少なくなり、いつ行っても満席の店と閑古鳥が鳴いて立ち行かない店に二極化しつつあるやうな印象がある。
 ほどほどの良さといふものが、飲食店にかぎらずこの世の中から急速に失はれてゐるやうな気がしてさびしい。旅先ではネットに頼らず、じぶんの嗅覚を頼りにいい店を探す。それが私のささやかな抵抗である。

             初出「京都新聞」2017年6月季節のエッセー

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