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区切りが時間を可視化する

今日は小学校の卒業式だった。一年生の長男は、この一年、ときに号泣しながら集合場所に現れ、ときに現れることすらできず、そんな彼を六年生と彼らのお母さんはあたたかく迎え見守り続けてくれた。

卒業式日和のなか、晴れ姿に身を包んだ六年生に、息子は最後の最後まで時間に間に合わないという迷惑をかけながら、学校へ向かった。本当にもう、最後までごめんね。

時間は見えない。大人になって、余計に見えなくなった。

昨日、中学時代の恩師が定年退職するからとビデオレターを撮った際に友人とも話していたのだけれど、中学時代から二十年も経つことがにわかには信じられない。確かにとうの昔に学生ではないし、何なら母親になってからもすでに七年が経つのだけれど。

時間の流れをひしひしと感じるのは、ずっと当たり前だと思っていたものが終わるときだ。

わたしが子どもの頃、父は俳優やタレントの訃報をテレビで見るときに自分の歳を実感すると話していた。当時はよくわからなかったけれど、大人になった今はよくわかる。

子どもの頃から知っていたり好きだったりした俳優やタレントやスポーツ選手は、当たり前だけれど自分よりもはるかに年上だ。だから、たいがいはわたしよりも先に“終わり”を迎える。

お笑いが好きな夫が、とある大御所芸人を指して、「何かがない限りは、このひとの死ぬときを見ることになんねんな」と言ったことがある。

わたしは洋画が好きなのだけれど、好きな俳優たちは気づけば50代オーバーだらけになっていて、これもまた、わたしが早死にしない限りは彼らを見送ることになる。いつかくるそのときを思うと、心がひゅん、となる。自分が死ぬことを考えるよりも怖い。

時間だけは平等で、時間だけは取り戻せない。

ちょうど先日観に行ったクリント・イーストウッド監督主演作品「運び屋」でも、時間の流れの残酷さについて触れていた。お金をいくら積んでも、過ぎ去った時間は買えないのだ。

こうしている間にも、刻一刻と時間は過ぎ去っている。そうして、昨日わたしの当たり前がひとつ終わった。

イチロー選手。物心がついた頃にはすでに選手だった。父が見ていたテレビで知って、そのまま「詳しくは知らないけどすごいひと」であり続けた。

わたしの知っている野球選手は、子ども時代に父経由で知った選手ばかりなものだから、年々数は減っていく一方だ。そのようななかで、歳を重ねても現役を続けている何人かの選手に対して「すごいなあ、もう何歳になるんだろう」と思いながら、でもなぜだかいつまでもい続けるんじゃないかと感じてしまっている自分がいた。

もちろん、それはただの錯覚で。時間は確実に、平等に経過していた。

ああ、と思ったあと、速報と流れまくるツイートを見ていた深夜。28年かあ。

引退はひとつの区切りであって、まだまだ人生は続いていく。「その後」となるこれからを、彼はどのように歩んでいくのかな。

彼に限らず、長くい続けた立場から離れるひとを見ると、これからが幸いであればいいと思う。

平成も残りわずか。わたしには昭和の終わりの記憶はないから、はじめての区切りだ。

それまでとこれからは、わたしにとって大きな違いはないけれど、区切りは否応なく過ぎた時間を可視化させる。

終わりはさみしいけれど、これからのはじまりでもある。3月下旬。終わりがあちこちに溢れるなか、感情を狭間で揺れるままにしている。

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