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“死にたい”を飼いながら

とにかく死ぬな、とりあえず死ぬな。そんなメッセージを今月はたくさん見かける。8月31日。翌朝に迫りくる二学期を前にして、命を絶つ10代が多いかららしい。

原因はいじめを苦にしたもので、たくさんの「あなたは悪くない」のメッセージが目に入る。死んだら終わりだ。生きていれば状況が変わることはある。学校は狭い世界だから、その世界しか知らない状態で命を絶つのはやめてほしい。どれもわかる。いじめてくるような人のために死んでやる必要はない。

……と、そんな言葉たちを見ながらうなずく一方で、過去のわたしがこれらを読んだら、かえって感情の行き場を失ったろうな、とも思っている。

死にたかった。自ら命を断ちたいというより、とにかく終わらせたかった。終わらせてほしかった。消えてしまいたかったし、終わらざるを得なかった知人や友人の訃報に触れるたびに「なぜわたしではないんだろう」と思っていた。頭のなかが死への願望でいっぱいになって、身体が重だるかった。だけど、わたしは特にいじめられてはいなかった。

明確に原因が説明できたらよかったのに。そう思っていた。いじめを苦にした自死のニュースが取り沙汰されるたび、わたしが決行したら「わけがわからない」と思われるのだろうなあとぼんやり思っていた。

それなりに学校の人間関係に難しさを感じていたし、親との関係に対しても思うところがあった。でも、そんなのみんな大なり小なり一緒でしょう? そう思ってはみるものの、貼りついて離れない死にたさ。自分がダメ人間に思えた。わたしの死にたさは所詮甘えだと自分で自分を否定して、さらにひとりつらさを募らせる。さざ波のようだったつらさの波形が、どんどん大きくなっていった。

その後、心療内科を受診したときには「死にたいと思うことは異常」といわれた。医師に合わなささを感じたことと薬が壊滅的に合わなかったことで、結局それ以来その病院には行っていない。「異常」ということだけが、心に刻み込まれた。ちなみに、「ふつうは死にたいなんて思わないんですよ」という言葉を、その後何度もいわれてきている。

当時、日記に「思春期、青年期ならではのつらさなのかもしれない。大人になったらなくなるつらさなのかもしれない。だけど、ずっとこのままだったらどうしよう」と書いている。自傷をしていた友人が身近にいたから、「切ることすらできずに死にたいとか甘えだろ」とも書いていた。腹のなかで暴れまわる衝動にただただ耐える。進路のことなんか考える余裕がないくらい今のつらさに囚われていたのに、問答無用で迫りくる時間と親に、未来を「考えろ」といわれ、強制的に「死にたい」に蓋をして進学した。

閉じ込められた「死にたい」はむくむくと成長を遂げ、遂に爆発寸前にまで肥大化する。目を逸らしつづけてきた結果、暴発寸前の「死にたい」に心身が悲鳴をあげ、わたしは大学を中退した。

一方で、知人と友人が自ら命を絶った。それぞれ、わたしが高校生、大学生の頃のことだ。強いショックに襲われながら、彼女らとわたしとの違いは何なのだろうとひたすら考えていた。そして、毎回「どうやって絶てたのだろう」と想像もしていた。

行動に移さなかったのは、運がよかっただけかもしれない。そう思っている。彼女らとわたしとの間に大きな違いはなく、ただわたしがぐるぐる思考の渦に飲み込まれている間に彼女らが逝ってしまっただけで、もしかしたら実行に移したのはわたしだったのかもしれないのだ。

そして、わたしは遺される側に残る痛みを知ってしまった。知人レベルの関係性であっても今もなお残る強い痛みを知ってしまうと、なおさら動けなくなってしまったのだ。苦しさを誰かに押し付けるくらいなら、ずっとわたしが苦しいままのほうがいい。そうも思った。

いじめに遭っているわけでもないくせに。
世間一般的に見れば、かなり恵まれている環境にあるくせに。
それなのに、死にたいなんてわがままだ。

そう思うことをやめられたのは、なぜなのだろう。もしかしたら、昔のわたしが願っていたように時間が解決してくれたのかもしれない。残念ながら「死にたい」はゼロになることなく、今も背中にへばりつきながら、いつ顔を出そうか常に窺っているけれど。

死にたいなら死にたいと思えばいい。それすら否定するのはつらいから、いくらでも心のなかで死にたい、消えたいと叫べばいい。叫び疲れたら、死んだように寝床に倒れていればいい。できるならたまには太陽を浴びてみたり、気が向いたら気のおけない人とLINEでもいいからやりとりをしてみたり、久々に昔好きだったハッピーなメロディーの歌を聴いてみたりしたらいい。

「どれもこれも無理だ」といいたいかもしれない。「どれもこれも無駄だ」と思うかもしれない。確かにどれもこれも気休めに過ぎないし、どれもこれもわたしの主観でしかない。腹のなかに飼う「死にたい」は人それぞれだから、何を与えれば鎮まるのかはわからない。病院で治療を受けたほうがいいかもしれないし、そうではないかもしれない(からひとまず行ってみるのはいいと思う)。絶対的な正解はないのだ。

あの頃から干支がひとまわりと少し経ってしまった今のわたしは、やっぱり心のなかで「死にたい」が暴れることがあるけれど、扱い方は昔よりもうまくなった。手なづけた、まではまだまだ達していないけれど。

明確に原因を説明できる「死にたい」でなくとも、死にたい気持ちを「意味わかんない」と否定されたくないと思う。甘えにしか過ぎないと自分を責めないほうがいいように思うし、無理やり押し殺すほうがかえって危ないように思う。ただ、「死にたい」ごと自分を受け入れられる日がくるまで、何とかやり過ごしてほしいと思う。冬眠だって回れ右だって、耐えるためならしたらいい。

終わらせるのも自分の人生ではあるけれど、別の世界に触れてみてからでも遅くはない。別の世界に行けるようになるその日まで、あなたが死なないでいてくれるといいなと思う。

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