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繰り返す苦味に足を取られても

甘く熟せなかった柑橘類がもたらす苦味が、のどの奥に広がった。

投げかけた言葉に忍び込ませた棘の存在を、幼いわたしは自覚していた。自覚していながら、きっと目の前の彼女には気づかれないだろうと思っていたように思う。棘は、彼女に向けたものではなかったからだ。それでも、彼女は言った。

「そんな風に言われたくない」

そう言い放ったときの彼女の眼はおそろしいほどまっすぐで、わたしはたじろいだ。しまった、と思う。わたしはまちがった。悪いことを言ってしまった。

ごめん、の一言はすぐには出てこなかった。彼女がどれくらいの間、わたしのことを射抜くように見つめていたのかはわからない。長かったのかもしれないし、短かったのかもしれない。そして、彼女は踵を返した。

敷き詰められた砂利の上で、わたしは佇んでいた。くちびるが乾く。きゅうっと締め付けられて、内臓がからだの中心に収縮してしまったようだ。指先が冷える。そのくせして、頬は熱かった。

「いい子だね」「やさしいね」

自分でいうのもどうかと思うが、そう評されることが多かった。そう思ってもらえるのはありがたいことだが、わたしはそのたびに嘘をついているような気持ちになる。

自分のなかには、ぐねぐねと蠢く悪意がある。幼い頃は、その悪意がひょんなところに現れた。冒頭に書いたのは、そのうちの一例だ。

成長するにしたがって、わたしは計算高さを身に着ける。ただでさえ上手にかぶっていた外面のお面を、さらに自分のものにした。悪意を手なづけ、内で飼いならした。だから、きっと本当はいい子でもないし、やさしい人でもないのだ。

嘘はついていないつもりなのだけれど、かといって本当に本心で向き合えているのかどうかは怪しくなることがある。数年前、近しい人と揉めたときに「性格悪いよね」と投げつけられた。この一言が感情の勢いで出た言葉だったのか、掛け値なしの本音だったのかは定かではない。どちらにせよ、わたしにぐっさりと刺さったまま、じゅくじゅくと痛みを放ち続けている。わたしは、この言葉がわたしを表しているほんとうだと思っているのだ。しかし、それを受け入れることも、開き直ることもできていない。

蠢く悪意に気付かれてしまうと、嫌われてしまう。どろどろした感情を見せることは、賭けでしかない。さらけ出した“わたし”を好いてくれる人はいないだろう。だったら、上手に隠しておかなければ。そうっとしておけば、きれいな上澄みだけを見せたまま生きていける。そうすれば、きっと嫌われずに済むだろう。

おこがましいにもほどがある。たとえ上澄みだけを見せていたとしても、嫌われるときには嫌われるのだ。望まなくとも別離はやってきてしまう。去る人は去る。わたしがどうあったとしても、それは避けられないものだ。

それなのに、わたしはいつまで経っても嫌われるのが怖い。悪意を向けられるのがとにかく怖い。相手を不快にさせたくないし、傷つけたくもない。土台無理なことだとわかっているけれど、平和に穏やかに生きていきたいのだ。いい人だと思われたくて、それなのにいい人だと言われると罪悪感でいっぱいになる。違うんだよ。わたしはほんとうは、性根が悪い奴なんだよ。そのくせして、性格の悪さが露呈することを過度に恐れているのだ。

去られるたび、あの日の苦みがのどの奥に甦る。あの日の彼女は面と向かって否と告げてくれたけれど、大人になっていちいち告げてくれることはない。告げてくれる人は、手間を惜しまず関係を築こうと思ってくれている人か、思ったことが口からすぐに出てしまう人かのどちらかだろう。どちらにせよ、あまり多くはいないような気がする。誰だって、面倒はごめんだろうから。面倒ごとに割いていられるほど時間や心に余裕がある人は、果たしてどれくらいいるのだろう。そして、わたしの周りにはどれくらいいてくれているのだろう。

水面をできる限り乱さぬように気を張らずとも良い人が、それでもわたしの周りにいてくれている。彼ら彼女らのほとんどは、「いい」や「やさしい」とわたしのことを評しない。彼ら彼女らのそばで安心して過ごせるのは、だからなのかもしれない。そして、安心がもたらしてくれているのか、彼ら彼女らの前では、そもそも悪意が蠢くこともないように感じる。少なくとも、無理やり押さえつけている感覚はない。

「どう思われようが構わない」と思えることは、強さになるのだろう。しかし、わたしはそうなれそうもない。いつまでも嫌われるのは怖いし、それなのに自分のなかで蠢く悪意は健在だし、そんな自分のことは嫌いだ。

怯えた小動物のようにびくびくしながら、怖さで浅くなった息を意識的に深く吸う。佇んだままではいられないから、懲りずに足を進め、腕を伸ばす。怖くても新たな誰かと出会いたいし、人と関わって生きていきたいのだ。

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