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匂わせ構ってちゃんの甘え

「わたしって、〜なのかなあ?」と疑問形にするとき、そこに込められた思いは何だろう。

「〜」に入る言葉によっても変わるけれども、返答で多く見かけるのは「そんなことないよ」だ。たとえ肯定するとしても、そこには前提として「そのままで大丈夫だよ」が求められていると感じる。

「構ってちゃん」が苦手だ。構ってちゃんとされる人そのものよりも、構ってちゃん、という括りが特に苦手だ。そして何よりも、自分が構ってちゃんだと誰かに思われるのが、とにかくすごく怖い。

「構ってほしい」気持ちを露わにすること自体、ひどく苦手だ。その裏にあるのは、「迷惑をかけたくない」、そして「迷惑だと思われて嫌われたくない」だ。

甘え下手で、自意識過剰で、自己肯定感が低い。それらが絡み合い生まれた感情なのだろう。我ながら「めんどくさ」と思うけれど、長年かけて組み上げられてきてしまった自分は、そう易々とは変えられない。

また、わたし自身の「匂わせ構ってちゃん」を時に面倒だと感じる心が、この恐れを根強く居座わらせているのだ。

「へー、そうなんだ。すごいねー」「えー、そんなことないよー」ばかりを相手に求める同級生がいた。あまりにも見え透いていて、あまりにも頻度が高いそのやり取りに、ほかの子たちは気づいてか気づかないままなのか毎回テンプレよろしく反応していたけれど、わたしは最終的に音を上げた。

「そうなんだ」でその会話を切り上げるようになったわたしから、彼女はそのうち距離を置くようになった。そのこと自体には何も思わなかった。ああ、やっぱりそういう相手だけを求めていたんだなあ、だけで。

共通の友人は、あるとき「若菜、あの子の会話を掘り下げないようになったやん?適当に盛り上げといたったらよかったのに」と言った。「あ、バレてた?」と返したら、「わかるよ。まあでも、付き合い続けるのも確かに大変やけどなー」と笑った。

女同士の会話の多くは、共感リアクションで成り立つと聞く。事実、わたしもそんなコミュニケーションをよく取る。けれども、彼女との会話は徐々にしんどくなっていった。なぜなのだろう。

思うに、彼女は一方的だった。ついぞ本心を語ることはなかったんだろうな、と思う。「わたし」や「あの子」と付き合いたかったのではなく、「わたしの望むリアクションを返してくれて、わたしを満たしてくれる相手」だけを求めていたのだと。

語りながらコミュニケーションを深めていくのではなく、表面上の「えー、すごいねー!」を繰り返し求めていただけ。ある種の甘えなのだろうけれど、相手を都合の良し悪しだけで選ぶ失礼な甘えだ。そうしたことに気づいて、虚しくなってしまった。

同じ「構って」でも、「わたし」を求められての「構って」は、まったく感覚が異なった。そんな相手に対しては、「甘え上手だなあ」と感心したり眩しく感じたりしながらも、不快に思ったことはない。そして、交わされる会話には中身があった。


……と書いていて、「あ、なるほどね」と気づく。要するに、中身のないテンプレだけの会話が苦手なんだ、わたしは。共感コミュニケーション自体はいいけれど、その共感は(本当に理解できていないにしろ)本物であることがわたしの場合は前提条件で、建前愛想合戦になるのはダメなんだ。そして、それだけを求められ続けると面倒だと感じてしまう。しかも、「〜なのかな?」「〜って言われるんだよね」と暗に求められると、余計に。

相手を選ぶ必要がないのなら、いっそのこと「誰か構ってー!」とストレートにやればいいのか。「〜って言われたんだけどー!ショック!!」くらい言えばいいのか。……うん、聞き手側としてこれなら不快じゃないな。むしろ潔さが気持ちいい。少なくともわたしは。

ただ、わたしの「構って心」は誰でもよくないことが多い。だから、これは何の解決にもなっていない。そして、わたしはやっぱり構ってもらいたい相手にも「構って!」をやれない。最近は輪をかけて、できない。甘え下手と通ずるところがある。何せ構われるのと構うのと(甘えるのと甘やかすのと)、経験値に差がありすぎる。

ひとつ、怖さの原因に思い当たる節がある。これも例の彼女絡みのことだ。

メンタル不調で保健室に逃げ込むことが重なっていたあるとき、国語教師に「卯岡さん、○○さんと親しくしてるやろ。あの子を真正面から相手にしてたら飲み込まれるよ。うまく付き合いなよ」と言われた。「先生がそんなことを言うのか」という驚きと「え、酷くない?」が入り混じった感情が湧き起こったのを覚えている。

けれども、結果的には先生の言ったことはわたしにとって正しかった。それとは別に、「ああ、彼女のようだと真正面から相手にするのは疲れる人だって思われるんだ」という怖さも残った。

わたしのなかで、彼女はわたしと共通点が一切ない存在とまではいかなかったから。どこか近しい部分があるように感じていた。だから、もやっとした気持ちは同族嫌悪だったのかもしれない。

似たようなことをすでにしているかもしれない、今していなくても、これからしてしまうかもしれない。そうすると、わたしが彼女に感じたように、先生が彼女に対して抱いたように、相手に思われてしまうのかもしれない。今もなおこびりついた、こじらせた自意識。いい加減手放せばいいのにね。



……と、「やっぱり自分、めんどくさ」だけが結論で、何の解決策も見つからないまま、ここに残すのは思考の跡だけ。そして、今日も明日も明後日も、やっぱりできるだけ面倒じゃない自分でいたい思いを新たにしただけ。

未来のわたしが「若いなあ」と思うのか「今もめんどい奴のままだな」と思うのかはわからないけれど、現状整理できるのはここまで。構ってくれる人やわざわざ構いに来てくれるやさしい人を、本当に大切にしたいと改めて思うのでした。

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