見出し画像

広くて狭い、愛しき世界

“ネット越しの人”がリアルに付き合いのある人よりも近しく思えたことがある。高校2年生の頃のことだ。

何でその場を知ったのかは憶えていない。とある未成年、若者向けの掲示板で、わたしは彼女に出会った。

遠く離れた広島県に住んでいる子で、年は三つ下。たまたま出会ったわたしたちは、互いの恋愛相談を中心に、さまざまな話をしていた。

当時、わたしは誰にも自分の恋愛話をしたことがなかった。ひとりに言うと、何人もに伝わる。そして、いつしか多くの人が知ることになる。そうしたことを小学生時代から心得ていたからだった。

彼女に出会い、わたしの世界は広がった。周囲の友達から聞いていた恋愛観は、当時のわたしのものとは似通っていなかったのだけれど、遠く離れた地にいる年下の彼女の恋愛観は、わたしのそれと近しかった。

割と長い期間やり取りをしていたと思う。ただ、最後はお互いがお互いの恋に何らかの決着をつけて、前に進んだ。そして、それと同時に何となく疎遠になっていった。わたしも彼女も受験に忙しくなり、そして新たな環境に移ったからだった。最後のやりとりがいつ、何だったかも憶えていない。ゆっくりと、ぼんやりと、フェードアウトして今に至る。時々、今彼女はどうしているのかなあと思いを馳せる。わたしは、何だかんだやっているよ。

当時のわたしは、似通った価値観をもつ相手がいたことに、とてつもなく救われた。当時のわたしの世界は狭かった。誰とも分かち合えない物事による孤独感が襲う。「マジメすぎる」だとか「そんなに考えられるなんて賢いね」だとかいう、本人とかけ離れたイメージを抱かれていた。特別賢いわけではないのに、賢く見られるギャップ。高校入学後、賢いキャラから脱却できて楽になった部分もあったのだけれど、根底にあるものをひとり抱え続けがちなのは変わらなかった。ネガティブな意味での“マジメ”だと思われたくない気持ちがあった。

ところが、どうだろう。大人になってみると、世界は全然狭くなかった。自分と近しい価値観を抱いている人もいれば、わたしのように青くさいと思われがちな事柄に真剣に向き合っている大人がたくさんいることも知った。

「大人になったらそんなこと考えなくなるよ」
「今は暇だからそんなことばかり思い悩むんだよ」

そんなことを言われてきたけれど、決してそんなことはなかった。考える人は何歳になっても考えるし、考え込まない人は答えのない問いの渦に自ら身を投じない。単に個人差の話に過ぎなかったのだ。

どこかひとところに身を置くと、世界は狭まる。狭ければ狭いほど、もしかすると居心地がよくなるのかもしれない。心地いいと感じるのが前提だけれど、広い場所よりも狭い方が落ち着くのは、何となく想像ができるから。

だけど、狭い世界は、一度合わなくなると途端に牙を剥く。一気に生きづらさを生む。わたしはわたしのままでいていいのか、時に疑問視すらする。

今は、いい時代だ。たとえ物理的に近い距離で出会いに恵まれなくとも、手を伸ばせば似た土壌の人と知り合える。「わたし、こんな人だよ」と発信する人たちに出会うことができる。

リアルがいいだとか、ネットがいいだとか、そんな垣根はあるようでない。少なくとも、わたしは。わたしがわたしであり続けながら手を伸ばして探る先には、似た価値観をもつ誰かがどこかにいる。

あの頃、偶然の出会いが高校生のわたしを支えたように、自ら動けば何かに出会える。

世界はいつだって広くて、いつだって狭い。枠組みを決めるのは、自分自身だ。

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。