住人になれない
同じ土地で生まれ育ち、「ここが地元」だといえる人を、いいなと思う。生まれ育っているわけではなくとも、「この場所が好きで、この場所のためになることをしたい」と思って動いている人のことも、いいなと思う。
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わたしは愛知県で生まれて、小学校2年生のときに大阪に引っ越した。23歳の年に結婚を機に東京に移り住み、25歳になる直前に埼玉にやってきて今に至る。転勤族の人はもっと多くの場所を移り住むわけだから、わたしの感覚は甘っちょろいのだろうけれど、どこに住んでいても、ずっと「居場所にしきれない感」がある。
生まれて7年間を過ごした愛知県某所は田舎で、目の前には田畑があり、わたしは自然と戯れて過ごした。引っ越した先の大阪も都市部ではなく郊外にあるベッドタウン。大阪のなかでは田舎に属する場所だ。ただ、愛知時代よりも周辺の自然は減った。ハイツやマンションや団地が多い、家ばかりの場所。
愛知県も大阪も、何なら東京も埼玉も好きだ。その土地にはその土地の良さがあって、欠点もある。わたしは土地に対してはあまり欠点に目がいかないらしく、都会に出れば「都会っていいなあ」と思うし、田舎に行けば「やっぱり田舎は落ち着くなあ」と思う。
ただ、どこにいても、どこか地に足がつけられていない感覚はぬぐえない。地域や土地に関するアイデンティティが確立されていないのだ。くらげのようにゆらゆらと生きている感覚。地に根を下ろせず、ふわふわと浮いている感覚。
「あの場所に住みたい」という気持ちはさしてなく、大阪に戻りたいとも思わなければ、埼玉にずっと住み続けたいとも思わない。何ならキャンピングカーで放浪しながら生活するのも楽しそうだな、とか。子どもが手を離れるまでは旅行でしか実現不可能だけれども。良くも悪くも、土地にこだわりがないということか。確かに、執着心が強まるのはいつだって対人で、対場所ではない気がする。
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特定地域を愛する気持ちが抱けない代わりに、「この地域のために何かをしたい」と思っている人の力になりたいという気持ちが大きい。2017年のわたしは「市井の人の話を聞く仕事をしていきたい」と言っていたのだけれど、2018年にはそうした仕事が増えた。地域に根差して活動している方の話は、刺激的で、まぶしい。
話を聞くなかで「いい場所なんだなあ」という思いも高まるのだけれど、わたしがどこかに根差すイメージは、やっぱりなぜだかもてない。
わたしが今住んでいるのは政令指定都市だから、何しろ面積が広くて、市町村としての「ここがわたしの居場所だ感」は薄まる。もともと関西県民だからというのもあるけれど、市内の北部や西部のことを、わたしは全然知らない。
「いいなあ」と思いながら、それでも自分はどこかに根を下ろそうとしていない。ただ隣の芝生が青く見えているだけの人間だ。わたしの「いいなあ」は好感であって羨ましさではなく、「なりたいなあ」とは異なるということなのだろう。
土地を愛するって、どんな気持ちなんだろう。土地にまつわるアイデンティティは、その人にどんな影響を及ぼすものなのかな。「一時的なお客さん」感がぬぐいきれず、わたしはいつまでも住人になれない。
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