理性で濾過したくない愛を叫べよ
こう、ぐわあっと胸をわしづかみにされるというか、胸どころか心臓を握られているような感覚というか、布団に突っ伏してじたばたせずにはいられない衝動というか、それら押し寄せる波を我慢した結果ただ惚けた自分しか残らなくなってしまった、みたいな、そんな事態に陥ることがちょくちょくある。
端的に言えば「好き」。それだけだ。
「どこが」とか「何が」とか、説明しようとすればできなくはないのだけれど、言葉に当てはめていくと、どんどん「なんか違う」、となる。
昔、こんなnoteを書いている。
「マジだよ、わたしはうさ脳そのものだよ」と初めて知ったときから今もなお思う。インプット右脳型、アウトプット左脳型。で、「好き」の言語化が自分のなかでどーにもこーにもしっくりいかないのは、感じるときと表現するときに主に使っている脳の部位が違いすぎるからなのかもしれないなー、と思っている。
「うわー、好きだ―!」は、冒頭に書いたようなほぼ本能と言ってもいい感覚として表れていて、「いや、こういうところがね」「このストーリーがね」「メロディーがね」と自分のなかで言葉にはなっていない。思ってはいるのだけれど、考えてはいない。わたしの「書く」は感じた産物というより考えた産物だから、感じたままを言葉で表すのが下手なのだ。それはもう、悔しいほどに。
熱く熱く「好き」について語っている文章を読むのが好きだ。ぐわああっと熱量が迸ったそのままが言葉になっている言葉を見ると、「うああああ、いいなああああ」とまんまと感化される。「ここがね」「ここのこういうところがね」と細かに書かれているものもいい。なのに、わたしには自分が納得できるそういった類の文章が書けないのだ。
言葉にしようとすればするほど、理性が働いてしまう。「好き!」も「嬉しい!」も怒りも悲しみも、すべて過度に濾過されて毒にも薬にもならないものを生み出してしまう。ほんと、つまんないですよ、そういうの。もっとこう人目をはばからない感じに愛を叫びたいものです。リミッター、外れてくれないんだよなあ。