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「特別」がはらむ残酷さと、熱くなく冷たくもない「当たり前」と

途中で放ったらかしにしている無料ブログがふたつある。ひとつは高校時代から23歳で結婚する前あたりまで書いていたもので、もうひとつは結婚してから働き始める数年前まで書いていたものだ。

そういえば、あの頃って何を考えていたんだろうなあ。そもそも、書いていたのだろうか。ふとそう思って、9年前の3月4月頃のブログを漁ってみた。

数本だったけれど、書き残されていた記事を読む。「パンやインスタントラーメンなんかがまったくない」「食品は落ち着いてきたけれど、水がまだ一切ない」そんなことが書き記されていて、あらためてまざまざとその頃に住んでいた都内の街を思い出していた。

思っていたこと、考えていたことは、今のわたしでもそうだなと思うようなことが大半で、この9年であまり変わっていない自分を見つけた気分になった。同時に、「そっかあ、そんな風に思っていたんだよなあ」と当時を思い出させる言葉も書き残されていて、書いておくことのおもしろさを味わっていた。



あの頃も「何のことはないただの日常がいかに幸せか」を強く感じたはずで、でもまあ、人間は熱いものは喉元を過ぎ去れば何とやら、なのだ。だからこそ、ここ最近また同様の言葉を多く見かけるのだと思う。

ただ、それはわたしも例外ではなくて、当たり前をいちいちありがたがりながら常に過ごしてきたわけではない。「電気がつく幸せ」だとか「布団で眠れる幸せ」だとか「ご飯が食べられる幸せ」だとかを、いちいち特別な幸せとして感じずに済むことこそが「幸せ」ともいえるのだろうから、当たり前に感謝せず過ごしていることがイコールダメなわけではないとも思っているけれど。そもそも、すべて熱いまま覚えていたら、人は生きていけないとも思うし。


たとえば、今わたしには子どもがふたりいるけれど、彼らももはや「いて当たり前」の存在になっている。授かる前の一喜一憂していたわたしがそんなことを聞いたらムッとするだろう。

でも、一方で第一子を産んで数ヶ月した頃、わたしにとっても実家の親にとっても友人にとっても、子どもが「そこにいて当然の存在」として認識された変化に気づいたとき、「当たり前」になったことに感動した記憶もあるのだよな。

同時に、不思議にも思った。たった数ヶ月前まではおなかの中にいて、そのまた10ヶ月ほど前までは存在がまったくなかったのに、と。当たり前って、特別じゃないって、それはそれで良いことでもあるんだなと思った。当たり前になって初めて、その存在が広く認められたかのような。

当然のことながら、「当たり前」だからぞんざいに扱ってよいことにはならない。雑に扱うことで、当たり前を失うことだってあるのだ。ただ、かといって特別な感謝や意識をすべきだというわけではなく、当たり前は当たり前な丁寧さで接したり扱ったりするのがよいと思う。人であれ、ものであれ。特別扱いがかえって傷つけることだって、大いにあるもんなあ。



何かことが起きたときに、ここぞとばかりに感謝の意を表明し、さらにはそれを周囲にも押し付けたり同調しない人を糾弾しはじめたりする人がいるけれど、そういう人こそ喉元を通り過ぎたときのギャップが大きいように思う。ある一方方向に激しい人は、もう一方方向に対しても激しいことが多い。好意と嫌悪、正義と悪、どちらかに偏りやすいのだ。

それよりも、もっとちょうどいい温度で幸せとか感謝とかを感じられる瞬間を持続させたいなあ。「幸せであることを意識しよう、感謝しよう!」みたいな強く熱い感じではなくて、ありがたいなーとちまちま思いながら幸せを受け取っていたいし、ありがとねと伝えたい。熱すぎず、冷めすぎずな温度で。

たとえ元が良い感情(感謝とか)であっても、そのうねりがオーバーになればなるほど、自分に酔っているように見えたり、感謝する対象を置き去りにしたお祭り騒ぎに感じてしまったりするタチなんだよな、わたしは。「特別なこと」だという意識が強まれば強まるほど、熱くなればなるほど、自己陶酔の度合いも強まるように思っている。「特別」にされた対象を置き去りにして。

(まったくの余談だけれど、マンガ「ハチクロ」の野宮さんのセリフを思い出した。「天才」「才能がある」と周囲がしてしまうことで、はぐちゃんはひとりきりになっちゃう、って山田さんに告げるシーン。これも、ひとつの特別扱いだよなあ)



喉元を通り過ぎてリアルな感覚を忘れてしまうときがくるのだとしても、熱かったことそのもの自体を忘れないために、今日も「熱かった」と書き残す。書くことで、熱いものを適温に下げられたりもする。適温の感情は持続しやすい。

書いて一呼吸おいて読み返して、自分が気持ちよくなるためだけのものになっていないかどうかを確認する。全員を不快にさせないものを書くのは到底無理だけれど、意識しておきたい最低限のことであり、わたしのできる配慮だ。

9年前のわたしも今のわたしも、見て、考えて、書いている。そんなわたしにとっての当たり前を当たり前に続けられていることも、とてもありがたいことだね。

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卯岡若菜
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