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思考の足跡、という名の下書き
何のために生きているんだろう。10代で希死念慮真っ只中にいたわたしは、ぼんやりと、時に深刻に考えていた。死にたいのだと思い切って母に明かしたとき、彼女はそんな娘に「なぜ生きているのかと考え始めたら、哲学的になってしまって答えが出ないし、どんどん暗くなってしまうから考えないようにしているよ」という言葉を含めた手紙を寄越した。
生きる意味に限らず、答えの出ない問いはたくさんある。すべてに明快に白や黒と答えを出せればよいのだけれど、それらの問いに答えは出ない。長い時をかけたいつの日か、答えではないだろうものが沈殿し、最後に残った上澄みに自分なりの答えが浮かび上がってくるのかもしれない。絶対ではないし、その「いつか」がいつなのかもわからない。
答えの出ない問いを抱え続けているのは、なかなかにしんどい。脳みそにはキャパシティがあるから、いくらでも新たな問いを同時並行して考えることはできない。だからといって、わたしは「もうやーめた」と放り投げることもできないタイプだ。考えないように意識した結果、考え込んでいたときのつらさより、さらにつらくなったことがある。あのときのつらさを味わうのは、もう嫌だと思っている。
その結果、一旦言葉にしてみるようになった。言葉にするためには言葉になるところまで考えなければならず、ぼんやりとしていた輪郭が少しクリアになる。結果、どんどん霧が晴れていくようにして今の答えが出ることもある。一方で、途中で「あれ、ダメだ。まだここまでしか言葉にならない」ということも多い。その結果、増え続けているのがnoteの下書きだ。
思考の途中経過を残しておくことは、決して無駄ではない。とりあえず何となくわかるタイトルだけをつけておき、時折そのタイトルを目印に開いてみる。三ヶ月、半年。時間をおいたことで、「あ、今ならこうだな」と呆気なく言葉にまとまることもあるのだ。
◇
その昔、アルバイト先の先輩に「若菜ちゃんは本当によく話すねえ」と言われたことがある。「ごめんなさい、マシンガンなんです……口から生まれてきたと親にも言われるんです」と肩をすくめると、「ううん、それだけずっと思考が働いてるんだと思うから、素敵なことだと思って」と笑顔で返された。
話していると、どんどん散らばっていたカケラが集まって、ひとつの形になっていく感覚がある。それは書くときも同じだ。ただの早口なお喋りだと思っていたわたしに、「頭の回転が速いんだなあと思ったよ?」と言ってくれた彼女の言葉を、実際のところはさておいて、今でもありがたく大切にしている。
◇
我思う、ゆえに我あり。大量に保存されているnoteの下書き欄は、わたしの思考の足跡だ。四方八方に広がったり、ずんずん深く潜ってみたり、行き止まりだと思っていたら微かに小さな抜け道があったり。時々覗いて、時々どこかに行き着ける。「答えのない考えごととか、意味なくない?」と言われたこともあるけれど、考えることは経過にも意味があるのだと思う。
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