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半冬眠な日
学校がほぼ機能しなくなって、3ヶ月。今年度、子どもたちはまだ一度も学校に足を踏み入れていない。
わたしはわたしで、予定されていた仕事が見通しのない延期になり、ふうむ、となっている。なっているだけで、積極的に何か動けているわけではない。今日を昨日に送り出すことで手一杯な日も多くて。
「今このときをどのように過ごすかで、これからが変わる」と方々から聞こえてくる。事実だろう。大人も子どもも、ここをどう過ごすのかで差がぐんと開くのだろうと思う。
……まあ、この「子どもをどう過ごさせるのか」は、幼ければ幼いほど親次第になる、という点が大人とは異なるところではあるけれど。そして、だからこそ追い詰められる親もいるだろうな、と思う。特に母親だ。自分の一挙手一投足で子の未来に影響が及ぼされてしまうと思い自分を追い詰めてしまうのは、やはり母親に多い印象がある。
そんななか、わたしは「確かにここを有意義に過ごせたら変わるんだろうな」と思う一方で、「とりあえず心身健康に次を迎えられればよし」でもいいのでは、とも思っている。
「何かをしなきゃ」「対応できるように動かなきゃ」「絶えず前進し続けなきゃ」は、まあ正しい。でも、そうやってイケイケゴーゴーで進むためには、最低限進めるだけの余力がなければならない。多少の無理ならいざ知らず、無謀な無理を重ねたら、その先にあるのは「マジで動けないモード」だ。そうなると、数年単位で自分が使い物にならない有様になってしまう。
どうせ、今の我が家のある種オフモードがわずかでもオンに戻ってきたら、また目まぐるしい生活が戻ってくるのだ。やりようでスローライフを実現できたとしても、少なくともわたしにはそんな力量はない。いうほど延々スローでいたいわけでも実はないのかもしれないしね。
だったら、何とかやり過ごしながら次のためのエネルギーを充填する期間と捉えるのも、それはそれでありなのかなあと思うのだ。冬眠みたいな。……いや、冬眠していられるほど何もしなくてもいいわけではないのだけれども。(いやもう、本当にそうなんだけれども)
「やらなきゃ」の声は、正しいと感じられるがゆえに内側に入り込んできてしまう。動けない自分が、まるで不良品や欠陥品のように思えてしまうこともある。
動けることに越したことはないのは事実だ。動かざるを得ない状況だって多々あるわけだし。ただ、長期的に見たときに無理がたたるような真似をしないのも、またひとつの正解なのだと思うし、正解だったと思える未来だといいなと願っている。
そして、それは大人だけじゃなく、子どももだ。「こんなときはそうないぞ」と思い、心身のエネルギーを貯める過ごし方を選ぶのもきっとありだ。何せ、今の子どもたちときたら、きっとわたしの子ども時代より追われ追われてすり減りがちだと思うから。
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