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無謀は安心が作る

わたしの通っていた中学校は、一風変わった校舎だった。

片側はL字に曲がり、もう片方は八角形。八角形の校舎には各面に沿って教室が並び、周りにはベランダがあった。

ベランダには自由に出入りできたのだけれど、今思うとちょっとすごいな、と思う。事故リスクとか、今言われたりしていないのだろうか。

そんなベランダは生徒の憩いの場で、わたしもよく昼休みを友人と過ごした。そして、そこから校舎側の階段の踊り場に窓から飛び降りたことがある。近道をしたかったから、というずぼらな理由だった。

踊り場のコンクリートの床は予想以上に固く(当たり前)、着地姿勢から足が痛くて動けない。続いて飛び降りる予定だった友人たちは、「え?え!?」と驚き、「痛いぃぃぃ」と唸るわたしを見て爆笑しながら、きちんと回れ右をして本来のルートでわたしの元にやってきた。

結果は、“ミクロ骨折”。つまり骨にヒビが入った。整形外科医の下した診断名“ミクロ骨折”の響きが、また何となく情けないやらふざけているやらで、今度はわたしも爆笑した。(笑いごとではない)

中学時代、わたしは学級委員やら生徒会役員やらを立て続けにやっている生徒だった。一度引き受けたら「やる人」だと思われて、繰り返し務める羽目になってしまった。加えて授業態度もマジメだったことから、「卯岡さんは優等生」だと、先生や話したことのあまりない生徒に思われていたきらいがある。

“そんな卯岡さん”が飛び降りて骨にヒビを入れた。職員室で報告を受けた数学の先生は、「ええっ?あの卯岡さんが、なんでそんなアホなことしたん?」と目を丸くした。えーと、はい、うん。でも、もともとバカげたことや無謀なことをしてきたお転婆系なんです。そう思いながら「いやー、ベランダ、人いっぱいで通りにくかったから近道しようかと思ってー」と笑ってごまかしたのだった。

思えば、あの頃のわたしには安心できる居場所があったのだろう。中学生としてのツラさや悩みは多かったけれど、尊敬できる先生にも恵まれていたし、信頼できる友人もいた。今でも付き合いのある友人だ。

無謀なことをするには、根底に安心が必要なのだと思う。バカげたことを真剣にやるには、バカげたことを笑いながら、それでもよしとしてくれる存在が重要だ。少なくとも、わたしにとっては。

「この場所にはちょっと不安がある」と感じてしまうが最後、わたしはただのツマラナイ人間になる。無難に、ただただ無難に。角が立たないよう、目立たぬよう、常識的に。周囲の悪意に敏感がゆえに、またできれば嫌われたくない気持ちが強いタイプがゆえに、凸凹のない人を目指してしまう。

完璧にできるとはいわない。ツマラナイわたしでいたとしても、嫌う人は嫌うだろう。だけど、波風立たぬように取り繕えなくはないから、表面上だけでも平和を作れてしまう。

でも、結局一度ビクついた心は平穏を取り戻さない。不安感を抱いた人とは、どちらともなく疎遠になった。離れたのはたまたまかもしれないけれど、わたしから近づくことは、おそらくもうない。嫌いになったのではないのに、ダメなのだ。

自意識過剰。そう思う。だけど、ダメなものはダメなんだなあ。

自分が自分らしくいられるには、安心していなければならない。それが、わたしだ。

周りを気にするそぶりなく、自由闊達に過ごしている(ように見える)人を、時にうらやましく思う。周りを気にしすぎてるんじゃ、と自分に対しては思う。

だけど、変えようと思ってもなかなかどうして簡単に変えられるものではないんだよなあ。わたしはわたしと折り合いをつけていく。そして、安心感をくれている人や場所をありがたく思う。小さくまとまったツマラナイわたしではなく、マジメもバカも振り切ってやれる環境は当たり前ではないのだから。

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