知れば知るほどわからない
書けば書くほど、「書くこと」がわからなくなる。
文章力とか筆力とか表現力とか創造力とか、全部ぜんぶ、どんどんわからなくなる。
わかることが増えるたび、わからないことが増えていく。難しさが跳ね上がっていく。そこまで到達できる気がしないのだけれど、と怯む。でも、「やーめた」とはなれずに、何だかんだ書き続けている。
知れば知るほど、先に進もうとすれば進むほど、「わからない」は増えていく。
だから、「わかった顔」ができない。だって、本当にわかんないんだよ。
結婚生活もそうだ。
いい夫婦とか、もう本当にわからない。「いい感じっぽい夫婦」なら何となくわかるけれど。
10年が経過したけれど、年々わかることが増えて、同時にわからないことも増えた。安易に答えを出すこともアドバイスもできないから、「いっそ浮気でもしてくれたらいいのに」とぼやく友人の話に、「そっかあ」と言って聴くことくらいしかできなかった。
子育てもそうだ。
いい親なんてものは偶像に過ぎない。結局は結果論、子どもが大人になったとき、「うちの親、いい親だったんじゃね?」と思ってくれたら、それがいい親だったことになるのかも、しれない。
やっぱりシタリ顔でアドバイスなんかできないから、わたしはわたしの楽しさや白目をむいたエピソードをただの体験談として話したり、ママ友の「マジでちょっとこれどうしたらいいんだ」に一緒に頭を悩ませたりすることくらいしかできていない。
何かを突き詰めるのが苦手だった。
何にも極められなくて、中途半端に表面だけをなぞることばかり何となくレベルでできてしまって。
それが何だかとっても未熟でカッコ悪いことに思えたし、何ならコンプレックスだった。
周りに「極め人」が何人かいたからでもあるんだろう。彼ら彼女らは、めちゃくちゃ輝いて見えた。カッコよかった。
ただ、全然極められてなんかいないとは思うけれど、それでも曲がりなりにも試行錯誤して七転八倒して起き上がってを繰り返しながらも書いていて、結婚を継続させていて、子どもを育てていることだけでも、ちょっとくらいは成長できているのかな、と思う。「わからない」が増えていくから、そう思う。
山は遠くから眺めているだけでは実際の山道の登りづらさはわからないし、氷山は潜ってみなければ海底にどれだけの深さがあるのかわからないのだ。
「できる」と胸を張って言えないのは、「わからない」や「難しい」が増えていく一方だからなのだろう。
比べてしまって、「いや、私なんてまだまだ登頂口にいるレベルですよ」と思ってしまうからなのだろう。
でも、少なくとも数年前の自分よりは、きっといくらか進んでいる(と思いたい)。
「わからない」が増えていくのは、「わかる」が増えた証拠なのかもしれないね。
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