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黒を通して見える白

「元気なうちに、通帳をまとめて写真を撮っておいてくれ」
正月に帰省した実家で、父が祖母にそう頼んでいるのだと聞いた。祖母はまだまだ元気だけれど、元気だからこそ言えることだ。保険も、通帳も、一体何がどうなっているのやらわからないという。

父に、「父さんらもやで」と返した。「何かあってからやったら縁起でもなくて頼めやんから、ほんま元気なうちにやっといて」と。わたしも、親の通帳やら保険やらについて、何も知らない。

お金周りのことももちろんなのだけれど、交友関係についてもまとめておいてほしいと話した。万一の際、訃報を伝えてほしい親の友人を、わたしは知らない。いや、名前程度は知っている人もいるけれど、連絡先は一切知らない。年賀状のやり取りがあれば連絡がとれるなというくらいで。……いや、ダメだ。親が年賀状をどこにしまっているのか知らないのだから。


義弟と、「でも、夫婦間でも交友関係って知らんよな」と話した。何歳であっても突然死ぬことはあり得るのだから、「これさえ見ればOK」と何かにまとめておくことは大切だろうなあ。死んだ方は困らないけれど、残す方にかかる負担を減らしておくことは、最後の気遣いになる。

「まあ、何か起こらん限り、あんたらにはまだまだ先のことやで」と母。「いややー、子どもら成人させたらあとはいつでもええわー」とわたし。「そんなん言うてる人ほど長生きするもんや」と父。

そんな父は、「親父の年さえ越せたらええわ」と言う。おじいちゃん、59歳で亡くなってるんだけど。「おばあちゃん元気なんやからまだまだ生きとかなあかんわ」「あっちは長生きの家系やからなー」。父、その血を半分は継いでいるのでは。

「今年でもう32なんよなあ。怖いわあ」と言うわたしに、「あと3倍くらい生きてもらわなあきませんね」と義弟が言い、「ええ……」と顔をしかめて見せた。曾祖父母は90代半ばまで生きたけれど、そこまで生きなくていいなあ……。

正月から何という話題で盛り上がっているんだろうと思いはしなくもなかったけれど、このような話はひとまずみんなが健康だからできるのだろうから、まあ、悪くはない。数年前、母が病気をしたときだったら話題にできなかったと思う。少なくとも周囲は。だから、こうしてワイワイ話せるのは幸せなことなのだろう。

家族や自分が死ぬときのことばかりを考えている子どもだった。祖父が亡くなったとき、通夜や葬儀で泣く母を見て(祖父は舅だ)、(わたしは親が死んだら泣けるんだろうか)と思ったのを憶えている。

泣くことが悲しみの表現のすべてではないとわかってはいるけれど、誰の葬儀に行っても涙が出ない自分が、冷淡な人間のように思えていた。元担任の先生が急逝されたときも、同級生が亡くなったときも、わたしは傍目には平然としているように見えたのではないかと思う。

小学三年の頃、飼っていたハムスターが突然短い命を終えてしまった。そのときも、わたしは泣くことも取り乱すこともしなかった。寝る間際に泣きじゃくり母に慰められていた妹の泣き声を、二段ベッドの上で天井を見ながら聴いているだけで。

死にたいし、死ねないし、死んでほしくないし、いつかは死ぬものだし。逃避と憧憬と諦念と悟りのような感情がつきまとう。リアルに死が差し迫っているわけではないからいえるのだといわれてしまえば、「そうかもしれない」と答えるしかないのだけれど、自分が死ぬことに対する恐怖や生きることへの執着心が薄い。

反対に、周囲の人が死ぬ日がくることは怖い。友人のなかで、わたしが一番に死ねたらいいのに。そんな思ってみても仕方がないことを思っている。

以前、「そのときがきたら、足掻かない気がするなあ」と母に話したら、「少しは生きようと思おうよ」と言われてしまった。(このときの“そのとき”は、災害や事故、病気を指していた)

「ふつうは死ぬことについてそんなにずっと考えないものだよ」と言ったのは誰だったっけ。「死は忌避したくなるものだから、死ぬことより生きているときのことを考えるのがふつうなのだ。だから、あなたは病んでいる」とその人は言った。

でも、死ぬと生きるのはセットだから、死ぬことについて考えるのは、生きることを考えることにつながるんじゃないだろうか。死ぬタイミングや死に方を選ぶことは難しいけれど、いつかくる死に思いを巡らせるのはおかしなことではないのではないか。黒があって、はじめて白さがわかるんじゃないの?

別に、死について考えている人間すべてに自殺願望や希死念慮があるわけでもないだろう。……まあ、当時のわたしには強い希死念慮があったわけだけれど。

深みにはまったり浮上したりしながら生死にとらわれ続けて、今は「まあ、死ぬときまでやり過ごさなきゃなあ」と思っている。後ろ向きに前向きかもしれないけれど、ニュートラルだ。がむしゃらに生きようとできなくても、とりあえず生きてはいられる。死ぬ日まで死ななければOKだろう。

「10代だから生死についてこんなに考え込んでしまうんだろうか」と書き記していた当時のわたし。どうも、単にわたしという人間の特性だったようだよ。

大人になるまで生きていられる気がしなかった割に、何とか大人になって親にまでなった。飽きることなく、生きることや死ぬことばかり考えながら。

「まあ、それなりにやれたかな」と思いながら死ねたらいい。そして、いつそのときがきてもいいように生きていきたいなあとも思う。後悔はきっとするのだろうけれど、心残すことは少なくありたい。


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