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その線と無関係ではない

「人を殺してしまう人と殺さない人とか、“何か”をしでかすかしでかさないかの間にある一線って、案外脆いんやないかなあ」

高校生の頃、何かのニュース(傷害とか殺人とか)を見ながら母に何気なく言ったら、「そんな怖いこと言わんでよ」とドン引きされ、そこで会話も終わった。

まあ、確かに子どもがそんなことを突然言い出したら不安にもなるだろう。でも、わたしは今でも、物事の間にある一線は、深いようでいて、何らかのきっかけで向こう側に行けてしまう危うさを孕んでいるものだと思っている。

小さな出来事が積み重なって、意識をせぬ間に「向こう側」との境目が薄くなっていく。「一線」はそこに確かにあるのだけれど、何かの弾みで向こう側に弾き飛ばされてしまうところにいつの間にか辿り着いていたら?思考や理性が及ばないところに感情が至っていたら?

「絶対」なんてない。そう思う。

それなのに、どういった物事でも、無関係の場所に自分を置いている人がいる。自分には線を越えることなどありえないと思い込んで、向こう側に行ってしまった人を糾弾する。

すごいなあと思う。いや、確かに冒頭に書いた高校生時代のわたしの発言のように、人を殺めるところに至る人はほぼいないだろう。でも、それは、殺めるに至る経験をしないで済んできただけ、ともいえるのではないだろうか。

どちらにせよ、ダメなことはダメだ。越えてはいけない一線は、越えてはいけないものだ。けれども、ただ「ダメだ」「悪だ」と安全圏から石を投げているだけでは何にも変わらないし、もしも自分の身に降りかかってきたとき、その人はどうするのだろうなあ、なんて考えてしまう。自分のことは棚にあげるのだろうか。(なお、別に殺人のことだけを指してはいない。人間関係やら不倫やら虐待やら依存症やら、いろいろなところに一線はあるものだ)

物事には、基本的にバックボーンがあると思っている。わたしは、この背景がわからないのに、あれこれわかった風に言いたくない。ニュースを見て「ひどい」「わけがわからない」と悲しみや怒りを覚えはするけれど、したり顔で何かを述べたくはないなあと思ってしまう。

「もしかしたら、あっち側に行ってしまったのはわたしかもしれない」

どこかで、こんな風に思う自分がいる。だから、「なぜ、こんなことになったのか」が気になる。


わたしは、わたしの白さに自信をもっていない。ほかのほとんどの人と同じようにグレーだし、物事にはよってはかなり黒に近いグレーなこともある。もしかしたら、人によっては「それは黒だ」と言われることだってあると思う。

いつ線を越えて黒に転じるのかわからないと自覚し始めてから、子どものときに好いたもののようなわかりやすい善悪物語にはあまり惹かれなくなった。

今は、登場人物の中に葛藤や迷いや矛盾があるものに惹かれる。潔癖な人間なんていない。同時に、はじめから真っ黒な人間だっていない。

そもそも、「一線」なんていうけれど、線の左右で白と黒に分かれていると考えること自体がおかしなことなのかもしれないね。人の心の多くはグラデーションなのだから。


余談だけれど、殺人という一線を描いた小説に、東野圭吾の「殺人の門」があったなあと思い出す。というか、これを読んだのも高校時代だから、冒頭のセリフはこの本を読んだことも関係していたのだろうか。(前後関係は忘れた)

かなり前に一度読んだきりだから内容は朧げなのだけれど、今読んだらどんな感想を抱くのかな。


#エッセイ #コラム #わたしのこと #考えていること

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