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古いものは、脳にやさしい

世間では色々なニュースが飛び交っていて、ネットでは日替わりのようにあちこちでボヤ騒ぎや炎上が起こっていて、別にそのすべてを受け止めてなんかいないのだけれど、なぜだか精神が削られていくような感覚に陥っていた。


わたしは物事を受け止め考えるときによく咀嚼という言葉を使うのだけれど、咀嚼していたら次から次へと口にモノが突っ込まれて、えずいてしまいそうになる、というか。イメージ画像は食べ終えていないのに差し出される椀子そばだ。

もう噛めない。ちょっと待って、まだ飲み込めていない。口も手も、動きがどんどん鈍くなる。パソコンに大量のタブとファイルを表示させすぎたときに陥るもっさりした動作のように、わたしの脳みその動きももっさりした。

見たくないものは見たくない。だけど、見たくないと感じるものに限って、これは考えるべきことなのではないかと思えるものが多い。見て見ぬふりを決め込むことにすら、誰へのかすらわからない罪悪感からストレスを増幅させてしまう。何様なんだ、わたしは。わたしひとりが考え込んだところで、何かが解決する事柄ではないのに。

見て見ぬふりも決め込めないのに、消費するのにもストレスがかかる。表面だけを味わって、「はい、次」といけない。まともに食らって、ずぶずぶと沈み込んで、悶々と考えつづけてしまう。

考えて考えて、たとえ答えが出ないのだとしても、それならば「答えが出ない」という答えを出す。そこを怠けていてはダメだという、一種の強迫観念のようなものに捉われている。

考えることは好きなのだけれど、「好き」の一言で片付けられないような、ちょっと病気じみたような感覚だ。もっと自分事と他人事に線を引かなければならないのかもしれない。しれないのだけれど、案外本当の意味で「他人事」って、あんまりなくないですか。世界との接点は思っているよりもずっと多いし、分断しようと思えばいくらでも孤立できるのだと思う。

悩むのは余裕があるからだとか、忙しければ悩む暇もなくなるよとか言われるけれど、余裕があろうがなかろうが、暇だろうが多忙だろうが、「考えている」自分がどこかにずっと存在している。アプリを開いたままのスマホのように、そうして電力を食っている。うまくスリープモードになれない。寝ているときだけシャットダウンされている。だからなのか、最近はぶっ倒れるようにして眠ってしまう。正確には、身体が先に動かなくなるので、頭が寝るまでにはタイムブランクがあるのだけれど。


常に新しいことに目を向けていなければならないよ、という囁きも、わたしの脳みそをヒートアップさせる。あまりにも、あまりにも速度が速すぎる。栄養を吸収する暇もなく、丸飲みして垂れ流していなければ追いつかない。早食いできる人たちが、みんなきちんと栄養と不要物を判別して、必要な栄養素だけを取り込めるシステムを持ち得ているわけではないのだ。

しょうがないから、物理的に情報をシャットアウトして、何度も読み返したマンガをぼうっと読んでいた。何度も触れたコンテンツは、脳にやさしい。昔、父が車で流していたハリウッド映画のサントラと同じものをYouTubeで流し、セリフを暗唱できるほど何度も読んでいるマンガを読む。その繰り返しを続けて、ようやくヒートしすぎた脳みそが落ち着きを取り戻した。

新しいものに触れつづけることは、新しいことを考えつづけることに繋がってしまうのだろう。あれもこれも考えるべき理由を見つけてしまうわたしにとっては、完全な意味で無関係なことの方が少ないから。

最近、以前にも増して古いものに興味を抱くようになったのも、意識的にスローダウンしたいと思っているからなのかもしれない。時間がゆるやかだった幼い頃には戻れないけれど、今の世の流れはわたしにはあまりにも速すぎる。

濁流に半身を飲み込まれながら、必死に手を伸ばし藁をつかもうと喘ぎつづけているその藁は、いつだってゆるやかな流れを思い出させてくれる、あの頃の“何か”だ。

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