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“素敵”は足元に落ちている

人の話を聴くのが好きだ。新しい知識や価値観に触れられるのは刺激があるし、自分の思考を深めるきっかけにもなる。「え、それってこういうこと?」「なぜそう思うに至ったの?」と尋ねるわたしに、考えながら言葉にしてくれた答えを聴くのが楽しい。

とある取材を終えたあと、「この分野の専門家なのですか?」と訊かれた。もちろんそんなことはない。確かに近しい分野の方から話を聴く機会はあったけれど、でもその程度。専門家はおろか、知見がある、というのもはばかられるくらいだ。

彼曰く、「質問の仕方が人によって違うんですよ。なかにはこちらのテンションが下がる訊き方をされる方もいるんです。今日は俄然話す気にさせてくれる質問内容だったので、専門的にこの分野に携わられている方なのかなと思ったんです」とのことだった。

素直にうれしいなあ、と思う。話していて楽しいな、もっと話したいなと思ってもらえるのは、聴いているわたしもハッピーだ。話したあとに「良い時間を過ごしたな」と思ってもらえたのならば、本当に最高だなあと思っている。

「人と話ができること」や「意思疎通を図れること」は、至極当たり前のことだと思っていた。しかし、今さまざまな会社を仕事で訪れるなかで、案外そうではなかったんだなあということに気づかされている。これはこれで、ひとつの美点だったのだなあ。

灯台下暗しとはよくいったもので、当たり前だと思っていたことが実は人から褒めてもらえることだったのかと感じられる機会が、さまざまな人と関わるなかで増えた。

多様な人と関わることは、その分傷つけたり傷つけられたりすることを増やすけれど、その一方で「いや、あなたのそれはわたしからしたら非常に素敵なことだよ」という出会いにもつながる。

似た者同士でつるむのも楽しいし心地いいけれど、似た者同士であるがゆえに互いの美点が重なって、共に「当たり前」だとしてしまうこともあるのだろう。似た者ではないからこそ、「素敵なもの持ってるじゃん……!」と気づいたり気づいてもらえたりするのかもしれない。

わたしはなかなか「特技」がいえない。好きと得意とは異なり、「好き」だとはいえても「得意」とは烏滸がましい気がしていえなくなってしまうのだ。そして、その傾向は大人になるにつれて強まってきたように思う。高みの人の存在を知るにつれ、自分は「できる」「得意」に至れていないのではないかという思いに駆られるようになった。「好き」は比較するものではないと思っているけれど、「できる」は比較されるものだという思いがどこかにあるのだ。

そのようななか、第三者からいわれる「いいね」や「好きだなあ」といったポジティブな一言は、わたしの足元を照らしてくれる。秀でているわけではないかもしれないし、誰かから見たら全然できていないかもしれないけれど、誰かからはできると思ってもらえることもあるんだ。

自分で自分のことを客観的に見つめられるのならいうことはない。けれども、いつでも誰でも自分だけを見つめていられるとは限らない。比べたくなんかないけれど、無意識に比べてしまうことは、いくらだってあるんだ。だから、そうしたときくらい、外側から見てくれる誰かの言葉に救われたってバチは当たらない、そんな気がする。

「それ、いいね」に気づいて伝えられる、そんな人や親になりたいな。誰かの“素敵”に気づけることは、気づいたわたしのこともハッピーにさせてくれる。

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