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ままならなさを、「仕方ない」と生きていく

この世には、ままならないことが多い。ひとりきりで生きているわけではないのだから当然であり、そもそも自然の前では誰しも無力だ。かくいうわたしも、最近は湿度や気圧に大いに振り回されている。もうすぐ暑さもやってくる。お手柔らかにお願いしたいものです、本当に。

そんな大きな事象以外にも、ままならないことはたくさんある。突き詰めていけば、この世に生まれてきたこともままなっていない。縁あってある日ある場所に生み落とされただけだ。生命の神秘といえば聞こえはいいけれど、病みに病みまくっていた昔のわたしは「なんて暴力だ」とも思っていた。(……のに、子どもをふたりも生む選択をした人間でもある。子どもたちにはでき得る限り幸せであってほしい)

自分のコントロールできないところで受けた痛みがある。明らかに自分に非のない状態で、長く影響を残す傷を負うこともある。生きていれば誰にでも大なり小なり何かがあるだろう。わたしにもある。

誰かの痛みと比べて「自分はマシだからがんばらなきゃ」と思う必要はない。耐えられるかどうかには個人差があるのだから、自分が痛ければ痛い、つらければつらいのだ。その事実を否定したり矮小化したりする必要はない。

ただ、どうしようもなかった過去のできごとも、過ぎ去った今ではままならないものだ。「わたしは悪くなかったのに」と思いつづけるのは自由だけれど、そのままでは現状のつらさからは少しも脱せない。脱したくない人もいるだろうから、脱すべきとまでは言わないけれど。

情けない話だけれど、ふと今の自分にしんどさを感じたときに、自分を形作るに至った過去のあれこれを思い出し、「ああ、あの出来事に見舞われさえしなければ」と思うことがある。「起きたことをどうにもできなかったとしても、せめてもっときちんと主張しておけばよかった」と思うこともある。しかし、どれもこれも後の祭りだ。今更の話だ。

「今更言ってもしょうがない」と痛みを無視しつづける方法では、上手くはいかなかった。一旦「今更だけど、今できる範囲で解きほぐす」ことが必要で、今できる範囲でしかどうしようもできないことに関しては、「仕方がないこと」として分別する。ままならないことがあること自体は、それはもう仕方がない。仕方がないなかで、できること、やれることをやりさえすれば、それでいいのだ。

問題解決を図るには、個人の範囲を超えた解決が必要になるケースもある。もっとキャパシティがあったなら、もっと力があったなら、根本からの改革も不可能ではないかもしれない。周囲を巻き込むことだってできるかもしれない。しかし、そうして戦うには余裕が足りないのだから、やっぱりこれも仕方がないのだ。仕方がないなりに、少しでも何かができていたらいい。少しでも進んでいられたらいい。

一見ネガティブなような「仕方がない」は、使いようによってはポジティブに作用する。開き直りともいう。わたしは自己肯定感はイマイチ、自信も持てない、メンタルがひ弱め、と誇れないことの多いタイプだけれど、それすらも「仕方がない」と受け入れてしまえれば、案外少しずつ進めるものだと実感している。ネガティブも突き抜けてしまえば、一周回ってポジティブになれる可能性を秘めている。

ままならないことは仕方がないから、それ以上見つめずに、他の場所から選びたいものを掴み取る。周囲を見渡し、今可能な選択肢から選びたいものを選ぶのだ。選択を繰り返しつづけているうちに、幾分か生きやすくなったように思う。これからも、わたしは新たな選択肢を探しつづける。

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