無駄とストイック

このあいだ2020年が幕を開けたと思ったのに、今日で12分の1が終わるらしい。

車の買い替え手続きをしに訪れたディーラー店で、かれこれ7年の付き合いになる営業さんは、「いやー、こうも早いと、どれだけ自分が流されて生きているのかと思いますよ」と言った。

年々早くなっていく時間のなか、さてわたしはどれだけ自らの力で泳げているのだろう。

何もしなくても時間は過ぎる。何かをしていても時間は経つ。どれだけの時間をつかめて、どれだけの時間を自分のものにできているのだろう。

とはいえ、「無駄な時間を完全になくさねば」とまでは思わない。というか、そんなことは無理だ。少なくともわたしには。そこまでストイックに人間ができていないし、どうやら自分はストイックを目指しすぎるとダメになるタチだとようやくわかってきた後厄女だったりする。


義兄はストイックでいなければストレスがたまるのだそうだ。仕事もジム通いも家でのトレーニングも、それはもう徹底して行われている。対して、妻である義姉は「あたしはストイックを目指したら死んじゃうわー」と笑う。確かに、帰省時に見る義姉はストイックではない。でも、それはそれでとても楽しそうだ。


わたしはきっと、どちらかというなら義姉タイプなのだろう。それが、育てられ方や他人から見られたイメージに無意識に寄せようとした結果、多少ストイック寄りになっていただけに過ぎないのかもしれない。

だから、無理がたたると突然ダメになる。非生産的な時間がないと死んでしまうのだなあとわかってきたし、常に効率性を求めつづけることにストレスを感じてしまうのだと思う。

できるだけ時間を有意義に過ごしたいなと思うけれど、その“有意義”は何も常に意思決定をして動いて「〜をしていた」と言える時間を過ごすこととは限らない。流されているときは、次に泳ぐ体力を蓄えられているとも言える。無駄なようでいて無駄じゃないのだよなあ。

そもそも、“無駄”かどうかだって、自分の捉え方次第なんだよな。一見、無駄に見えるものを無駄ではないものにすることだってできるはずなのだから。


こんなことをぐだぐだ考えて書いている間にも、時間は過ぎる。流されたり泳いだりしていきましょう。泳ぎ切る日がくる、その日まで。

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