好きの重量を恥じるな
人によって、物事への好き度は違う。
同じ物事への「好き」であっても、のめり込み具合や感じ方は千差万別で、「楽しい、感動した」と言葉にしやすい人もいれば、心の深いところに届いたがゆえに、簡単に「好き」だと言うことすらできない「好き」もある。
ときには、人生を左右されるほどの「好き」も。そして、その熱は本人以外にはなかなか伝わりづらく、理解されにくいものだ。だからこそ、仲間を見つけたら嬉しいし盛り上がるものなのだけれど。
好きになったものが、大半の人にとっては軽い娯楽程度のものだったとき、熱が恥ずかしくて言えない人がいる。真剣に重く捉えている自分の感情を、なかには否定してしまう人までいる。
「そんなに?どこがいいの?」
そう問われたときに、きちんと言語化できる人ばかりではない。また言語化が得意な人であっても、この手の感情を適切に言葉にすることは難しいと思っている。なんだか、言葉に当てはめれば当てはめるほど、「本当」から離れていってしまう気がして。
「軽い娯楽ではなくて、重く重く受け止めることは恥ではない」
こんな内容の言葉に触れたのは、「神風怪盗ジャンヌ」の最終巻に載っていた作者のあとがきだ。
ファンレターで、その手の悩みが寄せられていたらしい。その返答として、「わたしの作品を心の重いところで受け止めてくれることは嬉しい」「軽く読んで楽しめないことをおかしなことだと思わなくていい」「マンガは娯楽だけれど、感じ方は人それぞれでいい」といったことを語っていた。
この言葉を読んだのは、たぶん中1の頃だったと思う。もともと繊細なタイプで、物事を受け取ったあと、いちいち複雑に考え込んでしまいがちだった。その上、思春期に足を突っ込んでいたわたしに、「感じるままでいい」という作者の言葉は、強い印象を残した。
好きになればなるほど、うまく伝えられなくなる。否定されるのが怖いのかもしれない。馬鹿にされるのが不安なのかもしれない。わたしの「好き」は、いつだって重苦しくて、濃いから。ときには身動きが取れなくなるほどに。
だけど、少なくとも自分で「重い好きも、まあいいものだよね」と捉えられるのは、よかったなと思う。自虐はするけれど(笑)
ただ、恋愛思考回路まで超絶重いタイプになってしまったのは、彼女の作品に影響されてしまったのではないかとも思っている。まあ、もともとの素養だったかもしれないけれどね。