「わたし」が不足している

「いいなあ」と思う作品や文章に触れるたび、ぎゅむーっとゆっくり押しつぶされるような感覚に陥る。静かに、けれど確かに加えられる圧。

「打ちのめされる」という言葉には、どこかスパーンとすっ飛ばされて「あああ」と頭を抱える印象を抱いているのだけれど、わたしは吹き飛ばされずにじんわりとプレスされる。

百科事典や辞書を頭の上に載せられているような感覚。ただ、押しつぶされてもきれいな押し花はできあがらない。というより、何もできあがらない。

「書けない」わけではないのだけれど、書きたいと思えるものほど、「書けない」。好ましい文章に触れるたび、自分の文章との距離を感じる。それはいつだって、あまりにも遠い。どうすれば「書ける」ようになるのだろうと思いながら、決して「これ!」と思っているものは書けないのであろうことも、また同時に思っている。

わたしが好ましく思い、憧れ、自分でも書けたらと感じているものは、結局のところ技術ではないからだ。

「筆力」「文章力」といわれるように、文章には技術があるし、技術は多少なりとも磨けるだろう。けれども、わたしが「ああ」と眩しく思うものの中身は、文章の裏側にある「その人の世界の見つめ方」そして「向き合い方」なのだと思っている。だから、たとえ技術を磨けたとしても、辿り着けはしないのだろう。


同じものを見ていても、見え方は違う。見えたものから受ける感じ方や向き合い方も違うし、表現も異なる。「ああ、わかる……」と思うとき、同時に「“わかる”くせに、わたしにはこうは言葉にできなかったんだ」と思って、心細いような悲しいような気持ちになる。

誰かの書いた文章に圧倒されると、自分の文章が、感情から目を背け、逃げ、浅瀬に立ったまま潜らずに書いたもののように思えることがある。ただの自己満足のカタマリで、薄っぺらいもののように。


押しつぶされるのは、たぶん本当は「書けない」以前に書こうとすらできていないからなのではないか。「掘り下げることから逃げていたのだろう?」と問いかけられながら、わたしはゆっくりプレスされる。

わたしにはできなかった。浅いところを掬ってわかったふりをしていただけで、きっと本当には何もわかってなんかいなかった。誰かの言葉のおかげで「わかった」だけで。……いや、もしかしたらそれでも「わかったふり」でしかないのかもしれない。

わたしはわたし以外の人にはなれない。わたしの目でしか見られないし、わたしの心でしか感じられない。でも、誰かの文章や絵や写真や映像に触れれば、擬似的に誰かの目や心を借りられる。圧倒されたり打ちのめされたりするけれど、それでも触れたい。そして、書きたい。

文章には人が表れる。圧倒されて押しつぶされるのは、わたしはその人が持つ人間性や感受性を持たない人間なのだと知らしめられている気がするからだ。それは技術以前の問題で、だから心がひりつく。あなたのように世界を見つめてみたかった。願ったところで叶わないことを思ってみたりもする。

「わたし」が足りない。わたしはわたしでしかいられないのに、わたしが足りない。浅はかで、陳腐で、甘ったれで、自己中心的。磨きつづければ、少しはましになれるのだろうか。

懲りずに書きつづけているのは、書かずにはいられないからだ。言葉にすると、自分のなかに漂っている、輪郭がはっきりしないものの解像度を上げられる。結論が出ないものであったとしても、一旦ひとつの答えが出せた気持ちになる。「何となく形にできた気がする」と思えるだけでも、ひとつの救いになっているのだろう。

なんだかんだいっても、見つめるしかなくて、考えるしかなくて、書きつづけるしかないのだ。

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