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迷子の亡霊

もうずっと、所在のなさを感じている。

わたしは「漂流系」やら「点々系」やら「放浪系」やらを自称している。しっかりとどこかに所属するのが苦手だからだ。どこかに属すのであれば、気の向くままに動ける自由を確保できる程度にしておきたい。むしろ、グループより対個人的な付き合いの方が好きだなあと思っている。

このふわふわとした関係性は、わたし自身が好んでいるものだから、所在のなさとは関係ないと思う。たぶんだけれど。


愛知県で生まれた。小2に上がるタイミングで大阪に越した。そして、結婚と同時に東京に越して、今は埼玉に住んでいる。

正直どこに対しても、郷土愛みたいなものはない。

地元愛を抱く人の話を聴いていると、いいなと思う。今日の取材先の方もそうだった。先祖代々今の家に住んでいて、赤子時代からの幼なじみもたくさんいるのだそうだ。(ちなみに70代のおじいさんだ)

確固とした土壌を持っているなあ、と感じた。

また、わたしは昭和62年生まれだ。ひと学年下から平成が混じる、ギリギリ昭和生まれ。物心ついた頃には平成なのだけれど、生まれが昭和だから、平成の人枠には入らない。

これも、なんだか中途半端で、ふわふわした感覚になる。昭和にも平成にも入れないような感覚を覚えたのは、確か高校生の頃だったと思う。3年になる前、「やばい、昭和だけ生まれは俺らの学年だけになるんやな」と男子が言っていて、「ああ、そうか」と思ったのだった。

それから、「昭和」だとか「平成」だとかで語られる物事に触れるたび、どちらでもない感覚を味わっていた。


わたしには「わたし」という属性しか、確固としたものがないような感覚がある。

娘として、妻として、最近では母として。どのアイデンティティもしっくりこない。地に足をつけて、「これがわたしです」と言える何かが、わたしにはぼんやりとした「わたし」しかない。

「わたし」がしっかりしている間はいいのだけれど、最近は簡単に輪郭がボヤける。立っている地面が突然底なし沼に変わり、ずぶずぶと飲み込まれそうな感覚に陥る。わたしが思う「わたし」は不確かだから、わたしだけでは保つことが難しいのかもしれない。

「わたし」を形作るのは、わたしだけではない。いろんな人、物事から見た「わたし」を得て、「わたし」は強固になることもあるのだと思う。

そうした「人、物事」といった「何か」が、いまいちわたしにはないのだろう。というか、ある「何か」を失ってから、わたしの思う「わたし」に自信がなくなってしまったというか。


喪失感が、より一層わたしの所在のなさを際立たせる。

まるで亡霊のようだ。

感情も意識も空に浮かせたまま、わたしは果たして今生きているといえるのだろうか、なんてことも思う。


#エッセイ #コラム #雑記 #わたしのこと


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