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削ぎ落とされた季節感

夏はまだまだだ、と思っているうちに、7月も半ばになってしまった。

気温は十分すぎるくらい高くて、これで夏でないなら夏とは何だと問いたくなる状況だ。それなのに、わたしの感覚では、まだ夏がきていない。そうして、実感がいまいちわかないまま、恐らく秋がくるのだろうと思う、今年も。

わたしのなかにある「四季の流れ」の感覚と実際のカレンダーの進み方とにギャップを感じ始めたのは、大学を辞めた頃くらいからだったろうか。

それまでは、感覚の有無に限らず、強制的に「1学期」「前期」と区切りがあったため、ズレを感じることはなかった。

はじめて「ズレてるな」と思ったのは、エアコンを使い損なったときだった。

父の仕事が屋外だったため、わたしの実家は日中あまりエアコンをつけることがなかった。(父に悪いという母の気持ちが理由)寝る前のタイマーや、夏本番がきたあとの昼間数時間など、使うタイミングが限られていたのだ。

そのために平気だったともいえるのだけれど、その年、わたしは「まだまだ夏の暑さはこんなものじゃない」と思って過ごしているうちに、8月の終わりを迎えていたのだった。

そうしてそれから時間を経て、そのズレはどんどん大きくなっている。いつのまにか夏も冬も終わっているのだ。

カレンダーの日付はただの数字の羅列だ。ときどき正気に返り、「!?」となることはあるのだけれど。

精神的に病んだのがきっかけなのか、多忙感が理由なのか、単に年を重ねたことによる体感速度の変化なのかはわからない。けれども、どんどん過ぎ去り方が早まっていくなかで、わたしは「きっとこうしていつのまにか死ぬのだろうな」なんてことを思っている。

希死念慮がなくなりはしないものの和らいだのは、この「いつのまにか死ねる」が理由だ。だから、正気に戻らない方が楽なのかもしれない。

時間の渦に投げ込まれたまま、ひたすら「今」をこなしていく生活は、わたしからいろいろなものを削ぎ落としていく。(気がしている)

余計なことを考えずに済む。(ことにしている)

クリアさは、時に毒でしかない。わたしは、今年も夏を実感せぬまま夏を終えるのかもしれない。

夏らしいことをしていないわけではないのだけれどなあ。


#エッセイ #コラム #雑記 #わたしのこと

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