「やれます」の重さ
「口先だけになるな」という父親の教えが、なんだか不本意な方向にまで影響を与えている。
「やれます、できます!」というのが極度に苦手だ。なのに、「やれます、できます!」が必要な仕事をしている。
やれるかどうかの判断は、わたしがするものではない。だからこそ「やれます」が、なかなか言えない。
言えるのは、「やれ得るように精一杯やります」だ。当たり前のことすぎるのだけれど。
精一杯やってみた結果、「やれなかった」ということは当たり前のようにある。向き不向きはやってみなければわからない部分もあるものなのだから。
それなのに、「やれます」の結果「やれなかった」になると、まるで嘘をついてしまったかのように感じてしまう。父の言う「口先だけ」の人間になってしまうような気がして、だからわたしは「やれます」が苦手だ。
自分を奮い立たせるために大口を叩ける人が、すごく眩しい。わたしには難しすぎることだから。「不安だー、自信がないー」とメソメソしているわけでもないのだけれど(それはさすがに相手にも失礼な気がする)、かといって「できます!」とはなかなか言えない。
……あ、ただ、すでにわたしの「やれる」と相手の「できている」がマッチしているとわかっている場合は、「やれます!」と言える気がするなあ。
そんなことを考えていて、ふと高校時代の英語教師の言葉を思い出した。
「おまえらなあ、I can't speak English.ばかり言うなよ。何かは喋れるやろが」
高1の頃、クラスに留学生がやってきた。彼に自己紹介をする授業で、馬鹿の一つ覚えのように名前のあとに「わたしは英語が喋れません」を繰り返すわたしたちに、先生は呆れたように笑ったのだ。
確かに、「喋れない」わけではなかった。流暢ではないし、完全に喋れるわけではないけれど。
なんというか、「やれます」の線を引く場所が高すぎるときもあるのかもしれない。「やれます」の「やれる」は、必ずしも100点満点でなくてもいいのだろうから。(手を抜いてもいいというのではなく、結果の点数だ、念のため)
「やれなくはない」と消極的になってしまいがちなのは、やはり損なのだろうなあ。
なお、ビビリの長男には、「はじめはやれない方が当たり前なんだから、まずはやってみたらいいんだよ」と繰り返し伝えている。
親の考え通りに伝わることばかりではないんだなあと実体験から思うなかで、「伝える」難しさもあらためて感じている。
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