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わたしを育んだあなた

久しぶりに、幼い頃に住んでいた家を見た。生家ではない。3歳頃から小学一年生までを過ごした家だ。

見た、といっても直接見たわけではない。パソコンの画面越し、Googleマップ上でのことだ。

特に理由があるわけではないのだけれど、何年かおきに、Googleが集めてきた画像でその家を眺めている。この道を通って幼稚園に行ったなあ、とか。通学路のここで、友達と道草を食ってばかりいたなあ、とか。ぼんやりと記憶を辿っては、ページを閉じる。そこに意味なんてない。

物心がついてから大阪に引っ越したこともあり、わたしはいろいろと中途半端だ。方言も異なるイントネーションが入り混じり、ですます調で話している相手には「えっ、大阪の人なんですか」と驚かれる始末。夫にはエセ関西弁を話す人間だと思われている。否定はできない。

地元感も薄くて、「ここの人」だという意識はない。何となく、根無し草感がある。いいのか悪いのかはわからない。

ただ、画面越しに昔住んでいた家を見ているときは、どことなく懐かしさを覚えている。家の目の前には畑が広がっていて、自然環境に恵まれて育った。文章を書き始めたのもその家に住んでいた頃のことで、文章を褒められたのもその頃のことだ。

ふるさとではないのかもしれないけれど、わたしの原点はこの場所なんだろうなあ、と思う。この家が、この家の周りの環境が、わたしをわたしとして育んだ。三つ子の魂ではなくて、七つ子の魂、だけれど。

わたしが生まれる前、父が子どもの頃からあった家。わたしが住む前にリフォームをしたらしいのだけれど、築年数はおそらく40年以上になる。

画像がいつのものかわからないけれど、外観はわたしの記憶にある姿から特に変化していなかった。今は、どんな人が住んでいるんだろう。特に用事はないけれど、いつかドライブがてら通ってみたい。そんなことを思った。

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