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「でもね」から始まる、それは暴力

「何でも話してね」
「何かあったら相談してね」

そう、彼女は言う。そんな彼女に、わたしはへらへらと笑って「ありがとうございます」と返す。もう何度目かのやり取りだ。わたしが彼女に事実以外のことを話すことは、ない。きっとこの先もないだろう。

「でもね」

いつだって彼女は言う。「でもね」のあとに続くのは、「正しいこと」だ。結局、こちらの事情や感情を汲もうという気が最初からないのだ、彼女には。いつだって、こちらが伝えた事実を「うんうん」と聞いたあと、彼女はきまって「でもね」と言う。

彼女の言う言葉は正しいと、わたしにもわかっている。

「でもね」に続く正論に、わたしが返せる言葉はない。返せたところで、何だか自分がみっともない言い訳を述べているように思えるだけだ。そうして、「結局はちゃんとできない自分が悪いんだよ」と自己否定に走るだけだ。自己否定に走ったところで何の解決にも至らないことはわかっていて、そのことをさらに否定する、悪循環に陥るだけなのだ。「ちゃんとできない自分が悪い」と自分で思うことすらも、自己弁護に過ぎないような気がしてくるのだ。

だから、彼女の「何でも話してね」に、わたしはいつだって曖昧な笑顔しか返せない。

正しくあれたら良かったと思う。求められる「正しさ」の枠内に常に収まっていられて、正しいレールから逸脱せずに乗っかっていられたら、さぞ平穏であれただろうと思う。

でも、そんなの無理な話なのだ。

タチが悪いのは、この正しさを守れるか否かによる影響を受けるのが、わたし自身ではない、ということだと思う。

「でもね」のあとに続くのは、「母親として我が子にしてやってほしい」という内容だからだ。「ちゃんと」しなければならないらしい、子どものために。「ちゃんと」しなければ、子どもがかわいそうなことになるらしい、彼女曰く。(そしてその言葉も、一つの事実ではあるのだと思う。大げさな側面もあるとは思うが)

うるせー!

と叫びたいけれど、最低限の常識と礼儀をわきまえていることに加え、正面切って喧嘩をすることが苦手な性格ゆえに、わたしはへらへらしてその場をやり過ごすばかり。

そして、そうは言っても心のどこかで「ちゃんとできていない」認識と子どもへの申し訳なさがあるのも、しんどさの原因となっているのだろう。

子育ての難易度は子どもによって大きく違っていて、加えて親と子の相性も大いに関係してくる。そして、その大変さは主観に過ぎない。誰とも比べられない。比べてみたところで、何かが変わるわけでもない。

各家庭でできる「ちゃんと」の範囲も違う。親のキャパシティも違うし、子によってはその「ちゃんと」に至る以前のことを満たすだけでも精いっぱい、というケースもある。状況によっても異なる。それもこれもすべて飲み込んでクリアして、「ちゃんと」するのが親でしょうと言われてしまえば、返す言葉はないけれど。でも、そんなの無理じゃんとわたしは思う。無理だよ。無理が通ったところで、すり減ってすり減って、そのうち充電器に差しても充電が満タンにならないスマホになってしまうよ。

子どもはかわいい。けれど、成長に伴って「ちゃんと」を求められる量と頻度が増えていて、それがとてもしんどい。「ちゃんと」って何なんだよ、とも思う。その基準は誰が作ったんですか。

言っている側からすると「親ならできて当たり前」なのかもしれないけれど、じゃあちょっと我が家を見にきてくださいよ、と言いたくなる。いや別に来なくていいけど。単にわたしのキャパシティだけが「ちゃんとできない」原因なのだとしたら、我が家の状況を見ても「そんなのあなたの甘えじゃん」と一蹴されるのかもしれないしね。

あとはね、やっぱり何度も思う。
「お母さんだから」を掲げて何かを言ってくるのは、卑怯だよ。
「パパは(できなくても)しょうがないよ、ママがフォローしてあげなきゃ」と彼女に言われたことを、わたしはたぶんずっと忘れられない。母ならボロ雑巾になってでも「ちゃんと」しなきゃいけないとでも言うのだろうか。しなきゃいけないんだろう。することが「正しい」んだろう、彼女の言うところの「母」ならば。

「何かあったら言ってね」と言われても、言ったところで正論でぶん殴られるだけ。わざわざ自らダメージを受けに行く人がどこにいるっていうんだろう。相手に言い返す余地を与えない正論は、ただの暴力だ。彼女には暴力を振るっている意識はなくて、「話してね」も「ちゃんと子どもにしてあげてね」も全部ぜんぶ善意から生まれた言葉で、それは全部わかっている。でも、わたしは母ではあるけれど、ただの不完全な人間なのだ。

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