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才能はなくても、適性ならあるかも

求人広告の仕事をしている。企業に取材に行き、話を聞き、募集記事を書く仕事だ。

別の仕事で、エージェント企業に話を聞きに行ったこともある。さまざまな企業で話を聞くたび、世の中には本当に多くの会社があり、求められるものも多種多様なんだなあ、と思う。

正社員になることなく、結婚出産してフリーランスになったわたしは、そんな当たり前のこともぼんやりとしか知らなかったのだ。

「才能」という言葉がある。

子どもの才能を伸ばす、自分の才能を活かして働く。多くの場所で見聞きする「才能」。そして、「わたしには何の才能もないから」という言葉も、また多く耳にする。わたし自身も、ないと思っているひとりだ。

あるとき、「卯岡さんの、その溢れんばかりの人への興味関心は才能だと思うよ」といわれた。「えええ?」と酒を飲み笑うわたしに、その人は「いや、ほんと。俺はそこまで知りたい、聴きたいっていう気持ちはないもん」とつづけた。

とはいえ、「そっか、これはわたしの才能なんだ!」とはいえない。思えない。「才能」として扱うには、あまりにもおこがましい気がしてしまう。

ただ、その一方で、「すごいなあ、才能だなあ」と誰かに感じるとき、その誰かは「どこが……!?」と反応することが多い。

世の中にあふれる「才能」という言葉は、人に使うぶんにはともかく、自分に対して使うには仰々しいんだろうな。「名誉のある賞を受けました」みたいに、目に見える形になることばかりではないし。

この仕事には、こんな人が向いている。
このポジションには、こんな人が適している。

そうした向き不向きは、どんな仕事にもある。そこにがっちりはまれば、「めちゃくちゃ才能あるね!」という評価になるんだろう。一方で、「全然才能ないよ」ということもあり得るわけだけど。

才能は万能ではない。当たり前だけど。まあ、何でもそつなくこなせる人も存在しうるけれど、それはもうたぶん天才なんでしょう、きっと。そうはなれない。仕方がない。わたしは、そうはなれない自分で生きていくしかない。特定の才能すら特にない、この自分で。

ただ、「自分の才能」と考えてしまうと「何もない」になってしまいかねないけど、「自分の適性」に置き換えてみたら何かしらは出てくる、気がする。適性だと、おこがましさも消える。何にも向いてないことは、きっとない。誰もが、何かしらはできるはず。そう思いたい。

「何の才能もない」と思ってしまうより、「こんな適性はあるかもな」と思えるほうがハッピーだし、道も開ける。道、開拓していきたいものです。少しでも楽に生きるために。

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