名前に邪魔をされないように

子どもの同級生に、学校では声を一切出さない(出せない)子がいる。幼稚園時代からなのだそうだ。詳しい事情は知らない。「話さないんだよ」と子どもから聞かされているだけだ。参観日に目にしたとき、確かにその子は一言も口をきかず、仲良しの子の隣でにこにこしていた。

クラス全員が一人ひとり描いた絵を持って一言ずつ言葉を言う発表の際には、絵を持ち立つその子の代わりに、隣の子が紙の裏に書かれた言葉を読み上げていた。何もかもが自然で、特別な雰囲気はみじんも感じられなかった。


その子は家では話すことがあるらしい。おそらく「場面緘黙症」と呼ばれるものなのだろうな、と理解した。わたしはその名前を知っていて、それがどんなものなのかも知っている。だから、その子のことを知ったときも「ああ、場面緘黙症なのかな」と思い、「え、なんで」とは思わなかった。


今は、わたしの子ども時代と比べると、いろいろな状態に名前が付けられている。そのことにはいい面もあるのだと思う。「あの子は〇〇で、〇〇は△△という傾向があるものなんだ」と知りさえすれば、安易に「変」とか「おかしい」と思う人は減るだろうから。傾向を知ることで、接し方の工夫もできる。双方にとって良い面は確かにある。

ただ、そうはいっても最終的にはその子はその子だ。〇〇だとしても△△に該当しないなんてこともある。「〇〇の人は△△」と短絡的に結びつけてしまうのは乱暴だといえるだろう。


子どもたちは、その子のことを「場面緘黙症だから」という理解をしていない。おそらく、その名前を知らないし、そういう説明も受けていない。ただ「そういう子なんだ」とあっけらかんと受け止めているようだった。

幼い頃ほど、純粋に自分と違う点を見つけて「なんでなんで」となってしまいやすい部分があるとも思うのだけれど、彼らは「あの子はああいう子なんだ」と丸ごとそのまま受け止めて受け入れている。その姿勢に、「ああ、いいなあ」と感じた。(わたしは小2で転入したときに「言葉の違い」によりいじめられた経験がある。だからなおさら、彼らのことをいいなと感じる)

思えば、2年前のクラスには補聴器を付けている子がいた。その子のことも、最初に「これは耳にとっての眼鏡のようなものなんだよ」と先生から説明を受けただけで、子どもたちは「ああ、そういうものなのか」と理解したらしい。さらに、学校には国籍が異なる子どもたちも通っている。それもこれも、彼らは「あの子はあの子」と認識しているようだ。


わたしたちは、いつから「そのまんま」を受け止める力を衰えさせてしまうのだろう。「〇〇だから」「××だから」と名前を付けられ、説明を得られて、そうしてようやく「理解」する。あくまでもそれは理解の第一歩に過ぎないのに、理解しきったつもりになってしまうことすらある。気を付けていないと、名前や説明は理解しようとする気持ちのハードルになってしまうことだってあるのだ。

「〇〇」だろうが「××」だろうが、最後は十人十色。目の前の相手がどういう人かわからないのは、誰であれ同じことだ。眼鏡やフィルター越しに相手を見て、勝手にわかったつもりにならないように。子どもたちの姿から、あらためて学ばされている。

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