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4社で1つの諏訪大社

一昨日の晩にこけた。盛大に。少し前にもこけていて、ダメージ大。これは
、おとなしくしておけというお告げだと前向きに捉えて、ほぼ籠もってみました。アマプラの「沈黙の艦隊」をみています。アニメになったり、映画になったり色々展開されている作品ですが、やっぱり面白い。だいぶと前の作品なので、過剰な期待はしていないし、今さらネタバレ感も無く、わかっていても見ていられるのは、作品の持つ力だと思う。こんにちは。

最初にお断りしておきます。長いです。

上社本宮
大社は宮より格式が上で理解していいのかな

さて、諏訪大社は4つの宮からなるものだということを全然しらなかった。いろんなところで分社を見かけはしていたけど、この時点ではあまり意識することなく至ってます。適当に行けば着くと思って車を走らせていましたが、道路にみれる標識案内の矢印方向があっちこっちに飛んでいてわけがわからなくなっていました。4つも点在している・・・後から納得。諏訪大社◯◯宮の◯◯をすっとばして読んでいたからに他ならない話。

Googleマップより

位置関係は赤で囲んでいる所でこんな感じ。字が汚くてすいません。他のマークは無視してください。広範というか縦長。どこか途中で4つの柱をもってその内側を神域とするみたいなのを見ていたので、4つの宮も四つ角を意識して建てられているものだとこの時点では思ってましたが違うぽい。

手水。お湯が出ている。手水舎は手前にあって、こちらは、また別に独立してあります。諏訪温泉の源泉らしい。触ってないので温度がわからない。

上社本宮 

一之本柱。この柱が4本立っているわけです。神殿の4隅にもみの木を建てています。4つあるんで、16本立てられているわけです。
諏訪で柱と言えば、7年に一度のお祭りがあります。時期になると、あれやこれやとみんな騒ぎますね。式年造営御柱大祭、御柱祭です。数えで7年後とに寅・申の年におこなわれます。上社は八ヶ岳の社有御小屋林、下社は東俣国有林から大木を切り出して運ぶそうです。

あ、ここに(本宮)最初に到着しております。おそらく、「本」の字に無意識のうちにつられて着いたかたちになっているかと。
訪れた順に書きます。何が正解かわかりません。伊勢とか外行って内とかありますが、無作法なようでしたら申し訳ありません。なにせ、現時点では、4つあることにまだ気が付いてない。

上社本宮
上社本宮 拝殿

諏訪大社は上社と下社にわかれます。上社本宮(かみしゃほんみや)は、諏訪市神宮寺に鎮座しています。上諏訪方面が上社でいいのか・・・わからん。

上社本宮 入口御門
上社本宮 入口御門(重文)

御柱が入口の脇に立てられています(意識して撮ってないので見にくい)。

御門は1829年(文政12年)の建立で、地元の宮大工 原五左衛門が棟梁ですが、雄大な構とその彫刻は見事な出来栄えと称されています。長廊は約70m、三十八間あり、明治維新までは上社の大祝のみ通った所で、その時に布を敷いたことから布橋の名称がついています。かつての御柱祭における遷座祭では、婦人達が自分の手で織り上げた布を持ち寄り、神様(神輿)の通る道筋に敷いたともいわれています。

諏訪大社HP

今さらながら、HPをみている。あの時点でも見たけど、すぐ消した。よくわからんかった。

あれ、奥に唐門が。先に、難しい言葉を引用しておく。

廃仏毀釈

明治初年、政府の神仏分離・神道国教化政策に伴っておこった仏教の抑圧・排斥運動。幕末から国学などの影響による廃仏毀釈や神葬祭運動があったが、1868(慶応4)3月の神仏判然令などにより、各地で神官・国学者らが中心となって仏寺・仏像・仏具などを破壊したため、全寺院の半数が廃寺になったといわれる。とくに山岳信仰を中心とする修験道や普化宗は大打撃をうけた。‘75(明治8)信教自由の保護が各宗に通達され、鎮静化した。

日本史辞典 角川

神仏習合説

仏教と在来の神祇思想と混融調和するためにとなえられた教説。奈良時代には経典知識の普及により神を仏教の護法善神として、神宮寺が建立され、神前読経が行われた。平安時代になると神に菩薩号をあたえ、権現の名でよぶようになった。、また、山岳信仰と密教が習合して、修験道が体系化された。一方、平安中期以降、本地垂迹説が展開して神々が救済者として強く意識された。鎌倉中期以降は、神道が理論化される過程で反本地垂迹説がとなえられた。

日本史辞典 角川

本地垂迹について書いた方がいい?・・・末法で・・・

そういうことか。なんか色んなことが腑に落ちてきた。わかってはいない。
正面と入口が違うし、入口側に参道の名残があるし変だなとは思ってはいた。廃仏毀釈で殆どの寺院関係が打ち壊されて諏訪大社が残った感じらしい。相当な仏教美術が無くなったのだろうな。

難を逃れたのか、法華寺。理由はありそうだけど、調べない。しかし、これで本来の神域がどこまでなのかが完全にバグった。

諏訪市博物館。ここで4つあることに気が付く。知らされる。

足湯は時間外でした。ちょうど訪れたときに片していました。神宮寺の文字に、またああ・・となる。

上社前宮
上社前宮
上社前宮

上社前宮(かみしゃまえみや)。茅野市宮川に鎮座。
「前」とあるから、こっちが先ぽいな。
日暮れもあって、けっこう急いだ。博物館で4つあると知った時点で15時半前頃。現着16時すぎ。
神域を流れる水眼(すいが)とよばれる清流で手を洗い、身を清めたそうです。

御幣

お地蔵さんに御幣が。お地蔵さんは、仏(菩薩)、御幣は神事に使われるもの。習合してますね。最近みかけませんが、希にですが、神社でお経を読んでいる方はおられますね。

ジョウビタキ

目の保養と、精神的休憩タイム。


下社秋宮 神楽殿
下社秋宮 両脇も拝殿(片拝殿)
下社秋宮 拝殿

下社春宮(しもしゃあきみや)。諏訪郡下諏訪町に鎮座。
彫刻がすばらしい。塗装はされておらず、素地(きじ)らしい。

下社春宮
下社春宮
下社春宮

下社下社春宮。秋宮とおなじ諏訪郡下諏訪町に鎮座。
秋宮同様に、彫刻がすごい。各、氏子同士で争って作ったらしい。どっちがすごいかと。結果どっちもすごくなった。

最後に、諏訪信仰を簡単に。そもそもは、水の神様。古代に竜蛇信仰があり、諏訪明神が巨大な蛇体で姿を現すなど。鎌倉時代に諏訪氏がこれを氏神として軍神としての諏訪信仰を成立させる。武家の信仰が発達すると、自然と狩猟神としての諏訪信仰が生まれる。殺生を罪悪と考える仏教に対して、行き所を無くした武士の方便として形成されていく(この当時は、神仏習合思想の真っ只中で仏の方が上位とされていた)。正当化にあたっては、鹿肉免という狩猟免許と鹿肉免箸(かじきめんばし)という獣肉を食べても穢れないという箸の大量発給によって広まっていった(武家には都合が良い)。近世末(幕末ごろ)まで、魚鳥野獣の肉を捧げることが、仏教の殺生からすると異常なことであり、それを論理的に肯定するために生まれた信仰だともいえる。また、農作物の豊作を祈る神としても近世に成立している。


長々と、毎度失礼します。今回は、諏訪大社が4つのから成り立っているという、私の混乱により始まったので、より長くなったかも。これでも、かなり端折ってはいるつもり。わかりにくくなるのではと思ったけど、祭事に感してはほぼすっ飛ばした。書き疲れての尻つぼみは放っておいて。

【参考文献】
日本史大事典
国史大辞典
特別展 諏訪信仰と御柱 諏訪市博物館 2022年


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