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#F1を語ろう
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皆さん、こんにちは!
UNZANです。

本日は、私の昔の趣味であり私の人生に影響が多大にあった、F-1の中でも「ナイジェル・マンセル」と「モナコGP」について書きたいと思いました。


私がF-1を見るきっかけになったのは、マンセルではありませんが、F-1で誰のファンと聞かれると間違いなく「マンセル」となります。
彼のレーシングスタイルは、あこがれるだけではなく「チームワークって何?」ということを最初に教えてくれたのです。


<マンセルとの出会い>

と言ってもリアルであったことはありません。
私が小学生の時に、自宅にビデオデッキがやってきました。
始めて「録画をする」というアイテムを手に入れたのです。
もう、秋も過ぎて冬になっていたと思います。
最初は、アニメなどを録画していたのですが、そもそもリアルタイムに見れる番組ばかりなので、夜中にやっている番組はないかラテ欄をみていました。
※ラテ欄とは、新聞の最後の面に合ったテレビとラジオの番組一覧のことです。
※今は、ラジオ欄は別の面に移行されたため、ラテ欄ではなくテレビ欄となっています。

そこで、その年のF-1グランプリシリーズの再放送をやっていました。
1989年のシリーズです。
第二戦 サンマリノGPから録画することが出来ました。


<ゲルハルト・ベルガーの事故>

サンマリノGPは、イタリアにあるエンツォ・エ・ディノ・フェラーリ・サーキット(通称イモラ・サーキット)で行われていた。
F-1は原則、一国一回開催となっています。
フェラーリのおひざ元でF-1人気も高いイタリアは、何とか自国で開催回数を増やしたいために、イタリアの中にある世界で5番目に小さな国、サンマリノ共和国が主催するF-1GPにコースを貸し出しているという設定になっています。

このイモラサーキットの名前を聞くと、ゲルハルトベルガーの親友でもあったアイルトンセナの事故を思い出される方が大半だと思います。
しかし、私は不死鳥のごとく復活したゲルハルトベルガーの事故を真っ先に思い出します。

私は、「悪魔の住むコーナー」と思っている「タンブレロコーナー」での事故でした。
スピンしたマシーンが、コンクリートウォールに激突し、そのまま炎上しました。
コースマーシャル(係員)の懸命且つ迅速な消火活動で、一命をとりとめることが出来ました。

すると、第4戦メキシコGPには復帰しました。
小学生UNZANには、不死鳥のように見えました。

<F-1へのめり込む>

そんな衝撃的な出会いから、すぐにF-1のとりこになっていきました。
といっても、当時はインターネットなどは無い時代。
F-1の情報は、雑誌を読むかF-1の地上波放送を見るかしかありませんでした。
雑誌は高くて買えず、立ち読みする勇気もなく・・・
録画したF-1の地上波放送を何度も繰り返し見ることで、F-1のルールや歴史を覚えました。
1レース3回は見てましたね(笑)

<マンセルのファンになる>

1989年のフェラーリは、セミオートマチックトランスミッションを初めてF1に導入したマシンでした。
「セミオートマチックって何?」と言う程度の知識でしたが、「カッコいんだろうな」と勝手にあこがれていました。
ゲルハルト・ベルガーのチームメイト、ナイジェル・マンセルがそのフェラーリに乗っていました。
ゲルハルトもナイジェルも私は、ドライビングスタイルは似ていると思っています。
とにかくアグレッシブ!
アイルトンセナのような神秘な感じもなく、プロストのように精密機械のような緻密さもなく、本能のまま走っている感じでした。
そこが、ファンになるきっかけです。
野球でいうと完全にホームランバッターです。
ホームラン(優勝)か三振(リタイヤ)という感じのドライバーです。


<お詫び>

一本にまとめ様と思ったのですが、ゲルハルト・ベルガーの話で大分文字数を使ってしまったので、続きは明日にします。
落ちまでたどり着かずにすいません・・・・

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