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雅印をいただく。
昨日の稽古のとき、師匠が私の所にやってきて言った。
「お年玉や。使いや。」
ゴトンという音を響かせて机に置かれた封筒を開けてみると。
師匠自らが篆刻した味わい深い雅印が2つ入っていた。
1㌢足らずの正方形の小さな雅印はかな文字用に、2㌢くらいの正方形の雅印は半紙、条幅用に使うものである。
私が使っている雅印は職人さんが機械彫りしたものであったが、縁取りが真っ直ぐ綺麗に揃った印である。
それを見た師匠が
「味がないなぁ。ワシが時間ある時に預かって縁を削って壊したるわ。」
と言ってくれていたのであるが、その雅印を預ける前に、自ら石を選んできて、さっさと美しく味わい深い文字を刻み、プレゼントしてくださったのである。
なんと御礼を言ったらよいのか。
師匠と名乗る人の弟子に対するその愛情深さはどこからやってくるのだろう。
まさに親が子に与えるような、無償の愛と同じである。
頼みもしなくとも、必要なものは黙って準備してくださるのだ。
先週の稽古の時には、大先生が隷書に苦戦している私を見かねて、ご自分の手に慣れた大切な筆をくださった。
「これはコシがあって扱いやすいから使いなさい。あげるから。」
自らの技や、道具を惜しげなく与えてくださる師匠と大先生。
持っているものを余すことなく注ごうとしてくださる姿勢にただひたすら尊敬の念は深まるばかりである。
やはり師と呼ばれる人というのは「ほんまもん」なのだ。
「嘘もん」は相手にしない厳しさもあるが、認めた者に対する愛は海より深い。
与えることを厭わず、見返りなどというケチなものにはまったく興味はないようである。
自然の中に存在する名も知らぬ草花にすら名を付けて愛でてやるような。
雲がかかってどんよりした空を見て憂鬱になるのではなく、この風景を筆に乗せて映し出したらどうだろうか?と常に考えているような。
上手く言葉にできないが、目に映る全ては作品へ昇華させるためのものとして受け止めているような、書道をひたすら愛し、心から楽しんでいるのがわかる。
この領域に至るまで、様々な葛藤があったのだろうと思う。
師匠も大先生も、
「雅号を潰してもたんや。本名に戻した。」と言っていたが、雅号を捨てる気になることが長い書道人生の中で訪れる時が私にもやって来るのかもしれない。
現在お二人とも本名で書いておられるが、私の雅号を認め、雅印を彫ってくださった。
「今は好きなようにやってみなされ。」と言われた気がしている。
否定ではなく、肯定。
好きなようにやらせて、自らで何かを掴むのを待つ。掴み取れぬ者は成長しないということを言外に放つオーラは眩しく厳しいが、期待してくださる気持ちに報いたいと思う。
そんな気持ちなどお見通しだと言わんばかりに。
今年最後の稽古を終え、挨拶を交わしたときに、師匠からはこんな言葉をかけられた。
「続けることが大事やからな。」
続いて大先生からの言葉は。
「楽しんでやるのが大事や。」
肩にバキバキと力が入った弟子の気持ちなど手に取るようにわかってしまうようなのである。
「ほんまもん」は凄い。
お釈迦様のような審美眼と鋭い洞察力を併せ持ちながら、ゆったり生きている。
少しも無理がないのだ。
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