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優しさの連鎖。

終業式はクリスマスイブだった。

冬休み前にもれなく届くのはサンタからではなく、ドカ弁、ちゃっかりの学校からの通知表である。

ドカ弁は高校生なので、事務的な成績通知票のみで先生からの所見などはないが、ちゃっかりの通知表には、きめ細やかな所見が書かれていた。

ペアの一年生と話をするときに、腰を下ろしてその子の目線に合わせてあげるなど優しい一面が見られました。漢字テストでは、たくさんの満点を取ることができました。

そうなのか。ちゃっかりも6年生として小さな1年生に対してそのような気遣いができるようになっているんだ。

小さな子に上から話したら威圧的に感じる子もいるかもしれない。背が伸びたちゃっかりが小さな子に合わせて目線を合わせて話をする姿を想像して、バカ親は嬉しい気持ちでいっぱいである。

そしてふと考えた。

こうした思いやりを自然に出来るのは、ちゃっかりも小さかった頃、先生方や、高学年のお姉さん、お兄さんにも同じようにしてもらってきたからなのだろう。

優しくされて嫌な気持ちになる人はいない。

目線を自分に合わせてくれる人に心を開くことは自然なことだと思う。

自分がされて嬉しいことは、誰もが本質的に欲していることなのだろう。

ちゃっかりは目上の人の優しさに恵まれて12歳までスクスク成長できた。

もし、こうした善意を受ける機会に恵まれないまま成長してきたのなら、きっと今のちゃっかりではないのだと思う。

優しくされた経験は幸福感として記憶に残る。

いつも誰もが優しくしてくれるわけではないが、沢山の人の優しさを受けた経験がその人自身を強く優しくしてくれるように思う。

そうした優しさを他人にもお返しできる時になって実践してみた時、それに気づいてくれる人がいることは、自己肯定力に繫がる。

自信に確信を持たせてくれる最後のエッセンスは、その行為を見ていてくれる人、そして褒めてくれる人の存在。

大人として、親としても見落としがちなことを掬い取ってくださる先生。良い師に見守られて子は育っている。

当たり前だと思わず、これからも人にお返しできる心を忘れずにいて欲しい。

そして、褒められるため、点数を稼ぐために他人に優しくするようなズルは覚えてほしくない。

ズルは、見る人がみれば全部お見通しであるし、自らが偽れば結局それ相応のものしか返ってはこないはずである。

優しさの連鎖の中にバッタもんの出る幕はないのだ。

#エッセイ


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