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何でもできるようになるということは。

年末は大掃除やお正月の準備をする。

結婚して18回目のお正月を目前に控えてふと感じたことがある。

いつもどおりにする、できるということは平穏無事であるということなのだということをありがたく思うようになったのは昨年末辺りからである。

考えてみればドカ弁は16歳、ちゃっかりも12歳になり、わが家には手のかかる子どもがいつの間にかいなくなっている。

お酒と正月花を買いにスナフキンと2人で出かけたのであるが、車の中でしみじみそんな話をしたのも初めてのことであった。

子どもたちがまだ幼い頃は、この季節は胃腸炎だのインフルエンザだのと誰かしらが体調不良を起こしていたし、突然の高熱に慌てて夜間救急に連れていくこともしょっちゅうだった。

おせちを作るにしても、目を離せば何をやらかすかわからないから子守をしながらだったし、大掃除をするときも当時はマンションに住んでいたから、小さな娘たちが窓から転落しやしないかとヒヤヒヤしていた。

大きくなった娘たちは、手伝いを喜んでするほどできた娘には成長していないが、やいやい指示を出せば、結構楽しげにちゃっちゃと役立つくらいにはなった。

高い窓を拭く時は脚立を使い、床の拭き掃除は一休さんのように這いつくばってサッサと拭きあげていく。

重いゴミ袋を渡しても軽々とゴミ捨て場に運んでいくし、風呂のカビを見つければカビキラーをシュッシュ吹き付けて汚れを落としている。

親がやいやい指示を出したからと言っても、こうしたことをスムーズに出来るようにはならないはず。

掃除の時間、係りの役割、部活の上下関係。学校での集団生活の中で自然に身につけてきたのだと思う。

幼子は小学生になった途端、小さな体に重いランドセルを背負い学校までの長い道のりを歩くことを課せられる。
雨の日も風の日も、焼けつく暑さも凍えそうな寒さも乗り越え、心身ともに大きくなっていく。

中学生になればさらに厳しい規律の中で、部活動に汗を流し、雑用係りからの出発である。

そんなこんなの時の流れの中で、学ぶことが山のように押し寄せるのだろうが、若い細胞はスポンジのような吸収力でそれらを吸い上げ、ある程度のことは一通りできるように育っていくのだろう。

掃除も雑用も校則も大嫌いだった私が40歳を過ぎてみて、娘たちを見ていてようやくそんなことに気づいたのだから、やれやれであるが、試練や面倒くさいことは、何も悪いことばかりではないと改めて感じた。

私たち親が体力が落ちていき、なんなくできていたことが辛くなってくる時には、子どもたちは何でも自分でできるようになっていく仕組みなのだろう。

何でもできるようになるということは。

全て自分が引き受けなければならぬことが増えていくということ。

いずれは何らかの形でそれらをしなければならない時がやってくるのである。

今はブツブツ文句を言いながら大掃除を手伝うだけでもよしとしておいてやろう。

娘たちにこの意味が分かる日がきた時は、今の私のような状況の日々の中で奮闘しているはずなのだ。

ククク…。楽しみである。

#エッセイ


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