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FaceTime。

ちゃっかりがFaceTimeにハマっている。

私のiPadを使って、転校してしまった仲良しのお友達と毎日長話をしているのである。

ブツブツ話す声が部屋から聞こえてくるので部屋に入ってみると、今見ているテレビの内容について話して盛り上がっていたりするのだ。

ひと昔前は、電話は顔の見えない相手と話す機械であった。

お尻を掻いて寝っ転がって話していても相手にはその様子はわからなかった。

FaceTimeは相手の顔を見ながら話すからそういうわけにもいかないのだろうが、遠く離れた相手と話すのには、まるで毎日会って話しているくらい心の距離は縮まりそうである。

ドカ弁もスカイプで毎日友達や彼と話しているようだ。スカイプがダメな時はポップコーンというアプリがあるそうだ。
顔は見えないが最大100人くらいと同時通話できるそうである。

常に誰かと繋がりっぱなしではないか。

利用している本人たちは相手との距離は縮まるのだろうが、私たち親からすると、娘たちが付き合っている相手の存在が全く見えないのである。

写真はそれぞれのiPadやiPhoneの中にたくさん収められているようであるが、現像した写真を写真立てに飾るわけでもなく、自宅の電話に相手がかけてくるわけでもない。

友達同士、恋人同士の密度は濃くなっていく一方であるが、そこにそれぞれの家族がいることは置き去りになっているように感じる。

私が高校生の頃は、付き合っている男の子からの電話は親が取次ぎ、しかも親子電話だったので、長電話がすぎると親が会話の中に入ってきて
「いい加減にしなさい‼︎」と怒鳴られたりする有り様であった。

しかし、親も相手の存在を把握しやすかったのだろうし、子の方も相手の親という存在を意識せざるをえない空気があったように思う。

「相手の顔写真くらい親に見せなさい。見せれないというなら、携帯は没収!」

先日ドカ弁に言い渡しておいたが、まだ相手の顔写真を見せてもらっていない。

ちゃっかりが中学生になったら携帯を持たせるか迷ったが、やはり先送りにしようと思う。

10代の若者の間では、携帯電話によるトラブルが絶えないのはこういった便利さにも潜んでいるように思う。

相手との距離の取り方が極端に下手くそになっているのがその原因なのだろうと娘たちを見ていてつくづく感じるのだ。便利になるほどコミュニケーション能力は低下しているようである。

FaceTimeは互いの距離を縮めるが、破局も早める気がする。

毎日顔を付き合わせて話す人への恋心は冷めやすいと思うのは要らぬお世話だろうか?

会えない間に相手を恋しく思い、声が聞きたくなるような感情。

相手をどんなに好きでも、埋められない孤独な時間って大切な気がする。

友情や恋愛を輝かせ、より長続きさせるには誰とも繋がらない時間、顔を見ない時間も必要なのではないだろうか?

#エッセイ


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